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小田城 その1(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

←水濠と主郭

 小田城は、関東八屋形の一つとして鎌倉公方から認められていた常陸の名門小田氏の歴代の居城である。小田氏は宇都宮氏の庶流であった八田知家が祖とされている。しかし、その八屋形と呼ばれる名門の中でも小田氏はもっとも影が薄い。常陸には、小田氏のほかにも佐竹氏などの有力な武家がいたが、小田氏の帰趨を決定付けたのは、南北朝時代の動向にあった。すなわち、小田氏は南朝に付いて北畠親房を支えたものの、後に北朝方の鎌倉府執事、高師冬に攻めらて結局降伏し、その後は冷遇を受けたのである。一方の佐竹氏は、鎌倉期の雌伏時代をはねのけて、南北朝期には一貫して北朝の足利尊氏に従ったことで常陸守護となり、大きく飛躍する端緒を開いたのである。そして戦国後期には、小田氏は佐竹氏の英主で周囲から恐れられた佐竹義重に攻められて本拠の小田城を奪われるに至ったのである。その後、小田氏は本拠を取り戻すことなく結局没落した。

 さて、そんな悲しい歴史の小田氏だが、さすがは古い名門だけあって、その居城の規模は中世戦国期の平城としては非常に大きい。そして特筆すべきなのは、浮島が数珠の様に繋がる戦国期の平城の姿が、耕地化しているとはいえ、ほぼ再現できる程度に完存しているのである。同じような浮島形状の城は、川越城岩槻城忍城羽生城、遠い北陸では小松城などと数多いが、そのいずれもが当時の縄張りは跡形も無く消えうせて再現不可能であるのを考えると、これはもう奇跡に近い。

 城の遺構は、基本的には耕地の中に曲輪跡と堀跡が段差となって残っている。一部は、住宅地の中や小学校の裏手に土塁が残っていたり、堀跡が残っていたりもしている。これほど明瞭に堀跡が低地となって畑の真ん中に残っているとは、正直思わなかった。また曲輪跡は、よく見ると同じ曲輪の中でもほんの数十センチの段差で分かれていたり、犬走りの跡と思しき堀際の低地部分などがあり、その形状が良く残っている。先ほども書いたように、同様な浮島形状の城はほとんど全滅している現代では、この城の遺構の価値は非常に大きい。そして、現在でも延々とつくば市による発掘調査が続けられ、その全貌を明かす努力が続けられているのである。
曲輪と堀跡の段差→

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
             (希少価値はあるが、面白味には欠けるかな・・・)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.150931/140.110767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※その後の復元整備が進んだ状況はこちら


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