唐沢山城 その1(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]
←本丸の高石垣
(2005年11月訪城)
唐沢山城は、佐野氏の祖に当たる鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が築いた城と言われている。その後時代が下って、佐野氏の歴代の居城となった。関東にしては珍しい、本格的な石垣の城であるが、この石垣は豊臣秀吉の関東仕置きで旧領を回復した佐野房綱が大改修した際に築かれたようだ。この天険の要害を誇る城を巡っては、関東戦国史の2強、相模の小田原北条氏と越後の上杉氏との勢力争いの境目に当たったため、数多くの戦が繰り広げられたが、いずれの戦いでも落城させることはできなかった。特に上杉謙信は前後10回にもわたってこの城を攻めたと言う。
そのような歴戦の城であるが、今は山頂に藤原秀郷を祀った唐沢山神社が築かれ、そのための車道も整備されているため、気軽に訪れることのできる山城になっている。全体に遺構は良く残っており、関東七名城に数えられる遺構の素晴らしさを満喫することができる。城域は広く、唐沢山神社の置かれた本丸とその周囲の高石垣を始め、二の丸、三の丸、武者溜り、帯曲輪、北城・南城・西城の各曲輪群、石垣作りの桝形虎口、堀切、横堀など、枚挙に暇が無い。それぞれの曲輪がそこそこの広さを持っているので、全体ではかなりの居住性も有しており、かなりの兵を置くことができたと思われる。北城の曲輪には、青年の家が建てられていたり、キャンプ場になったりと変貌しているが、堀切などが良く残っていて、往時の状況を掴むのにさほど苦労はしない。
正月になると多くの初詣客で賑わう、一般人にも身近な、関東屈指の山城である。
←南城の石垣
←北城曲輪群の薮の中にも
石垣が埋もれている
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353759/139.600761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※今回から時折、ブログを始める前に訪れた城についても紹介していきます。
ちなみに唐沢山城は、北陸転勤中に覚えた城歩きを、関東に戻ってから初めて行った城でした。
※後日、重要な遺構群を見逃していたことが発覚。詳細はこちら。
(2005年11月訪城)
唐沢山城は、佐野氏の祖に当たる鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が築いた城と言われている。その後時代が下って、佐野氏の歴代の居城となった。関東にしては珍しい、本格的な石垣の城であるが、この石垣は豊臣秀吉の関東仕置きで旧領を回復した佐野房綱が大改修した際に築かれたようだ。この天険の要害を誇る城を巡っては、関東戦国史の2強、相模の小田原北条氏と越後の上杉氏との勢力争いの境目に当たったため、数多くの戦が繰り広げられたが、いずれの戦いでも落城させることはできなかった。特に上杉謙信は前後10回にもわたってこの城を攻めたと言う。
そのような歴戦の城であるが、今は山頂に藤原秀郷を祀った唐沢山神社が築かれ、そのための車道も整備されているため、気軽に訪れることのできる山城になっている。全体に遺構は良く残っており、関東七名城に数えられる遺構の素晴らしさを満喫することができる。城域は広く、唐沢山神社の置かれた本丸とその周囲の高石垣を始め、二の丸、三の丸、武者溜り、帯曲輪、北城・南城・西城の各曲輪群、石垣作りの桝形虎口、堀切、横堀など、枚挙に暇が無い。それぞれの曲輪がそこそこの広さを持っているので、全体ではかなりの居住性も有しており、かなりの兵を置くことができたと思われる。北城の曲輪には、青年の家が建てられていたり、キャンプ場になったりと変貌しているが、堀切などが良く残っていて、往時の状況を掴むのにさほど苦労はしない。
正月になると多くの初詣客で賑わう、一般人にも身近な、関東屈指の山城である。
山上の駐車場に着くと、→
枡形虎口がお出迎え←南城の石垣
北城の堀切、青年の家の→
給水タンクが置かれている←北城曲輪群の薮の中にも
石垣が埋もれている
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.353759/139.600761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※今回から時折、ブログを始める前に訪れた城についても紹介していきます。
ちなみに唐沢山城は、北陸転勤中に覚えた城歩きを、関東に戻ってから初めて行った城でした。
※後日、重要な遺構群を見逃していたことが発覚。詳細はこちら。
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