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壬生城(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_8698.JPG←横矢掛りの土塁と水掘
(2005年11月訪城)
 壬生城は、宇都宮氏の家臣、壬生氏の築いた城である。但し、「宇都宮氏の家臣」という言い方は、史実に照らすと正確ではない。というのも、壬生氏は紀清両党以上に独立性が強く、事実上宇都宮氏に敵対して戦国大名化していたと見なしてよい。時には宇都宮氏の配下として振る舞い、時には宇都宮氏に真っ向から敵対して、宇都宮城を乗っ取ったこともあるほどである。そのため、宇都宮氏は常に南西方面に対しての備えを固めざるを得なかった。こうした内部の統制の弱さが、関東屈指の名族宇都宮氏を、地方豪族のままに止めてしまったのである。
 壬生氏は出自には諸説あって定かではないが、どうも宇都宮氏の一族であったらしい。または婚姻を通して一族化したのだろう。元々は壬生城を本拠としていたが、鹿沼氏を下して鹿沼城を手に入れると、鹿沼城に本拠を移した。この頃の城の規模がどの程度だったのか定かではないが、後に戦国時代が終わりを告げると、壬生氏は断絶し、他の大名家の下で近世城郭として発展した。特に1712年に鳥居氏が入封すると、幕末まで続いて町の発展に尽力し、そのため現在では鳥居氏の築いた町として記憶されているほどだ。現在、栃木の名産になっている干瓢は、もともと鳥居氏が持ち込んで特産化したものである。
 鳥居氏時代の城は、かなりの広さを持った複郭の平城で、近世城郭の名に恥じないものであったようだが、現在では市街化で破壊が進み、わずかに本丸の南側に水堀と土塁跡が残るが、それとても公園化に伴って石積みの護岸が築かれ、とても旧状を推し量れるようなものではない。南西側の横矢がよく残っているが見所はその程度で、本丸内には公民館や歴史資料館が建てられているため、それ以外の遺構は壊滅している。街中も歩いては見たが、とても旧状を推し量れるような遺構は無く、大手門には丸馬出しまで備えられていたといわれるのに、勿体ない限りである。宇都宮城もそうだが、栃木県は貴重な文化遺産を自ら望んだ近代化の中で永遠に失ってしまったのである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.427653/139.798086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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