篠塚城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
←篠塚城大手門跡の八幡神社
篠塚城は、太平記に名高い篠塚伊賀守重廣の居城である。篠塚伊賀守は、鎌倉初期の名将畠山重忠の6世の裔で、重忠が源氏に代わって政権を握ろうとする北条氏に滅ぼされた後、かろうじてその子孫が命脈を保ったものである。篠塚伊賀守は怪力無双で名高く、挙兵した新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、新田家中の四天王の一人と称えられた。南北朝の争乱期になって北陸の地で新田一族の総帥義貞が戦死し、弟脇屋義助が伊予に転戦すると、それに従って伊予で戦い、並み居る足利方の大軍を相手に剛勇をもって鳴らしたと伝えられている。
城跡は、現在ではほとんど湮滅して遺構を見ることはできない。わずかに大手門跡と伝えられる場所に八幡神社があり、その脇に「篠塚城跡」の手書きの札がかけられているだけである。
なお、城跡から北東に600mほどのところにある大信寺の脇に、篠塚伊賀守重廣の墓が大事に守られている。
場所:【篠塚城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.249188/139.440901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【篠塚伊賀守の墓】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.255435/139.446309/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
篠塚城は、太平記に名高い篠塚伊賀守重廣の居城である。篠塚伊賀守は、鎌倉初期の名将畠山重忠の6世の裔で、重忠が源氏に代わって政権を握ろうとする北条氏に滅ぼされた後、かろうじてその子孫が命脈を保ったものである。篠塚伊賀守は怪力無双で名高く、挙兵した新田義貞に従って鎌倉を攻め落とし、新田家中の四天王の一人と称えられた。南北朝の争乱期になって北陸の地で新田一族の総帥義貞が戦死し、弟脇屋義助が伊予に転戦すると、それに従って伊予で戦い、並み居る足利方の大軍を相手に剛勇をもって鳴らしたと伝えられている。
城跡は、現在ではほとんど湮滅して遺構を見ることはできない。わずかに大手門跡と伝えられる場所に八幡神社があり、その脇に「篠塚城跡」の手書きの札がかけられているだけである。
なお、城跡から北東に600mほどのところにある大信寺の脇に、篠塚伊賀守重廣の墓が大事に守られている。
篠塚伊賀守重廣の墓→
お城評価(満点=五つ星):☆場所:【篠塚城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.249188/139.440901/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
【篠塚伊賀守の墓】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.255435/139.446309/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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