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小川城(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

DSC03633.JPG←横矢の見事な本丸の堀跡
 小川城は、沼田氏の一族小川氏の居城である。沼田景久は、1492年に荘田城の西の押さえとしてこの地に城を築き、次男の景秋を置いて小川氏を称したという。後に小田原北条氏の勢力がこの地に延びてきて小競り合いが繰り返される中で、宗家が戦死して断絶状態になったときもあった。そのころ、播磨の守護大名で三管四職の一家、赤松氏の裔、赤松捨五郎祐正なる者がこの地に流れ来て客分としている内、次第に才を認められて宗家の後家と女合わされて、上杉謙信の裁可を得て小川氏の名跡を継いだ。そして小川可遊斎と号して迫り来る北条勢と対峙して、1580年には北条勢に大勝を博したが、怒った北条氏邦の怒涛の進撃の前についに城を捨て、見城の柵(味城山のこと)での最後の抗戦も虚しく、越後に落ち延びたという。
 城は利根川右岸の断崖上に築かれている。城の構造は名胡桃城に良く似ており、半島状に突き出た断崖上に本丸とささ曲輪を置き、唯一の攻め口である本丸西側の台地を掘り切って二の丸と分断している。本丸は公園化しているが、この堀が非常に良く残っていて、横矢も明瞭である。本丸には櫓台や土塁もあり、本丸周囲の遺構の残り具合は非常に良い。一方、二の丸であるが、国道に分断されているところまで名胡桃城に似ていて、更にその西側は畑と宅地に変貌している。わずかに看板によって、二の丸の堀跡がわかるくらいのものである。二の丸の西にも根小屋などがあり往時はかなり広かったようであるが、現在ではほとんど城跡の痕跡を見出すことはできない。
 新幹線の上毛高原駅のすぐ近くなので、場所はわかりやすい。二の丸以降の曲輪ももっと残っていればよかったのだが。まあ、本丸の堀跡が見事に残っているだけでも良しとすべきか。
先端にあるささ曲輪、→DSC03650.JPG
    その先は断崖絶壁である
DSC03659.JPG←二の丸の堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.692735/138.981020/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

 それにしても、歴史とは面白いものである。まさか群馬で赤松一族の名を聞こうとは思わなかった。赤松氏は播磨の土豪であったが、元弘の倒幕戦で赤松円心則村が活躍して勇名を馳せた。しかし円心は護良親王に組していたため、後醍醐天皇の寵妃阿野廉子に嫌われ、恩賞をほとんどもらえず怒って播磨に引篭もった。後に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、足利方に付いて終始尊氏を支え続けた。京都争奪戦で一時は大敗した尊氏を強力に支援して、九州落ちから再度の西上まで支え続けて大功を挙げた。そのため足利幕府が開かれると播磨の守護に任命され、3代義満が武家の家格の序列を決めたときには、足利一門以外では京極佐々木氏と並んで四職の家柄となった。
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