御前城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]
←堀跡?
真岡の御前城は、宇都宮氏の重臣芳賀氏の初期の居城である。当初は京泉館を居館としていたが、芳賀氏7代高親が、源頼朝の奥州合戦(奥州藤原氏攻め)に従軍して活躍した後に、この城を築いて本拠としたと言う。御前城は平城であったため、戦国後期により要害性の高い真岡城を築いて本拠を移したというが、真岡城の築城年代にはいくつかの説がある上、芳賀氏にはもう一つ要害性の高い重要な城、飛山城があって、南北朝時代から重要拠点として攻防を繰り返しているので、御前城がいつごろまで重要性を持っていたのか疑わしい。実際、飛山城の近くの同慶寺には芳賀氏累代の墓があり、こちらの方が本拠であったように思われる。
城は真岡東中学校の西側にあたる地域にあったようだが、現在では宅地と畑に変貌しており遺構は湮滅している。わずかに堀跡と思しき地形があるが、はっきり言って良くわからなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.437511/140.021138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
真岡の御前城は、宇都宮氏の重臣芳賀氏の初期の居城である。当初は京泉館を居館としていたが、芳賀氏7代高親が、源頼朝の奥州合戦(奥州藤原氏攻め)に従軍して活躍した後に、この城を築いて本拠としたと言う。御前城は平城であったため、戦国後期により要害性の高い真岡城を築いて本拠を移したというが、真岡城の築城年代にはいくつかの説がある上、芳賀氏にはもう一つ要害性の高い重要な城、飛山城があって、南北朝時代から重要拠点として攻防を繰り返しているので、御前城がいつごろまで重要性を持っていたのか疑わしい。実際、飛山城の近くの同慶寺には芳賀氏累代の墓があり、こちらの方が本拠であったように思われる。
城は真岡東中学校の西側にあたる地域にあったようだが、現在では宅地と畑に変貌しており遺構は湮滅している。わずかに堀跡と思しき地形があるが、はっきり言って良くわからなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.437511/140.021138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
コメント 0