千渡城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]
←西面の空堀と土塁
千渡城は、戦国末期に宇都宮国綱が鹿沼城を本拠とする壬生氏に備えて、府所城・深津城・茂呂城・石川城などとともに築いた城の一つといわれている。宇都宮氏家臣の宇賀神氏が城主であったという。
城跡は現在、宝性寺になっており、背後に山を控え、前面に武子川を天然の堀とした構えを取っている。基本的に単郭方形居館跡にしか見えないがこれは本丸跡に過ぎず、もう少し城域は広かったと思われる。単郭方形居館では、戦国末期に築いた支城群にしてはあまりに頼りない城郭だからである。もともとあった居館を拡充して城としたというところであろう。本丸周囲の四辺の土塁と空堀は良く残っていて、南側の虎口跡と思われる部分の土橋は、そのまま寺の入口になっている。また駐車場横の土盛りと、寺の100mほど手前を走る市道沿いには土盛りと小さな池があるが、これも土塁と水掘の遺構のようである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573819/139.783452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
千渡城は、戦国末期に宇都宮国綱が鹿沼城を本拠とする壬生氏に備えて、府所城・深津城・茂呂城・石川城などとともに築いた城の一つといわれている。宇都宮氏家臣の宇賀神氏が城主であったという。
城跡は現在、宝性寺になっており、背後に山を控え、前面に武子川を天然の堀とした構えを取っている。基本的に単郭方形居館跡にしか見えないがこれは本丸跡に過ぎず、もう少し城域は広かったと思われる。単郭方形居館では、戦国末期に築いた支城群にしてはあまりに頼りない城郭だからである。もともとあった居館を拡充して城としたというところであろう。本丸周囲の四辺の土塁と空堀は良く残っていて、南側の虎口跡と思われる部分の土橋は、そのまま寺の入口になっている。また駐車場横の土盛りと、寺の100mほど手前を走る市道沿いには土盛りと小さな池があるが、これも土塁と水掘の遺構のようである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573819/139.783452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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