寒河江城(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]
←寒河江城本丸跡の碑
寒河江城は、寒河江大江氏の本拠である。鎌倉幕府初期の功臣大江広元の子、親広は京都守護であった関係からか承久の乱の際に後鳥羽上皇方について敗れ、所領の寒河江荘に逃れて蟄居し、そのまま寒河江大江氏の祖となった。寒河江氏は南北朝時代には一貫して南朝方に付いて、北朝方の出羽按察使斯波兼頼(奥州探題斯波家兼の次男)と戦い、漆川の戦いで一族数十人を失う大敗北を喫したこともあった。しかし滅亡から免れた寒河江氏はその後、勢力を徐々に盛り返したが、戦国後期になると最上義光の侵攻にさらされ、ついに1584年18代高基は最上氏との戦いに敗れて貫見の御館山で自害した。こうして寒河江氏は滅亡した。
城は元々は本丸だけの方形居館であったものを、その後たびたび改修を加え、室町時代初期の8代時氏のとき、三ノ丸まで持つ輪郭式の城が完成したという。現在は市街地化に伴って遺構はすべて湮滅しているが、堀跡は道路となって残っている。これらの道路の脇には水路が流れており、わずかに堀であったことを物語っている。
尚、周辺にある寺院には、寒河江氏歴代当主の墓が散在しているので、歩いて回ると面白いかもしれない。また澄江寺の山門は、かつての寒河江城三ノ丸の辰巳門と伝えられている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.376452/140.278974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
寒河江城は、寒河江大江氏の本拠である。鎌倉幕府初期の功臣大江広元の子、親広は京都守護であった関係からか承久の乱の際に後鳥羽上皇方について敗れ、所領の寒河江荘に逃れて蟄居し、そのまま寒河江大江氏の祖となった。寒河江氏は南北朝時代には一貫して南朝方に付いて、北朝方の出羽按察使斯波兼頼(奥州探題斯波家兼の次男)と戦い、漆川の戦いで一族数十人を失う大敗北を喫したこともあった。しかし滅亡から免れた寒河江氏はその後、勢力を徐々に盛り返したが、戦国後期になると最上義光の侵攻にさらされ、ついに1584年18代高基は最上氏との戦いに敗れて貫見の御館山で自害した。こうして寒河江氏は滅亡した。
城は元々は本丸だけの方形居館であったものを、その後たびたび改修を加え、室町時代初期の8代時氏のとき、三ノ丸まで持つ輪郭式の城が完成したという。現在は市街地化に伴って遺構はすべて湮滅しているが、堀跡は道路となって残っている。これらの道路の脇には水路が流れており、わずかに堀であったことを物語っている。
尚、周辺にある寺院には、寒河江氏歴代当主の墓が散在しているので、歩いて回ると面白いかもしれない。また澄江寺の山門は、かつての寒河江城三ノ丸の辰巳門と伝えられている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.376452/140.278974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城 出羽寒河江大江氏の城郭
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