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山上城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSC07231.JPG←北曲輪西側の堀と土塁
 山上城は、藤沢川と山田川という小河川に挟まれた台地上に築かれた、いわゆる丘城である。鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利成行の孫の五郎高綱がこの地に入封して山上氏を称し、この城を築城したといわれる。高綱の子太郎高光は源頼朝に仕えた。その後も山上氏は勢力を維持し、室町時代に上杉氏が関東管領となっていた頃には、由良氏・薗田氏・桐生氏などとともに東上州の四家として重きをなしたと言う。その後、戦国後期になると、山上城は膳城などと共に北条・上杉・武田3氏による争奪の舞台となり、天正18年の北条氏滅亡に伴って廃城となったという。このことから最終的には北条氏の勢力下に入っていたようである。
 山上城は近くにある膳城とほとんど同じような立地条件にある。この地域の城は、おおむね上毛電鉄の線路を境に北側は丘城、南側は平城と、立地条件が変わるという。殊に山上城は南北に長い台地上にあるため、南北に曲輪が連なり、防御の弱くなる東西側面を腰曲輪を築いて防御性増強を図っている。現在城跡公園となっているが、完全公園化しているのは三ノ丸だけで、それより北の曲輪はほぼ原状維持されているようだ。本丸は城内最高所に置かれ、周囲を空堀と帯曲輪で防御されている。二ノ丸とは堀も介さず連続しているのだが、面白いのは西側だけ二ノ丸との間に堀を設けていることである。北曲輪は最も防御が厳重で、東以外の三方に空堀を設け、更にその先に土塁や笹曲輪を作って防御性を高めている。二ノ丸と三ノ丸の間は空堀で分断し、三ノ丸は広大で、現在一面の芝生公園となっている。三ノ丸の南側は低地となっていて畑や宅地となっているが、ここからは近年武田氏系城郭の特徴である丸馬出しが発見された。笹曲輪から三ノ丸までの西側には数百mに及ぶ長い土塁と空堀が構築され、本丸より北では土塁と空堀は二重となっていて厳重に防御している。西側にここまで徹底的な防御施設を構築しているのは、東側は眼下に藤沢川が迫って天然の外堀となっているのに対して、西側は平坦な地形が続き防御が弱かったからであろう。このほかに更に南側にも櫓台跡とされる高台が残っている。
 膳城とは近く立地条件も似ているが、全体に城の構築思想は大きく異なっており、あまり技巧性のない縄張りである。城域は広く、多数の兵員を置くことのできる軍事駐屯地だったようである。遺構は非常に良く残っており、ほぼ全ての縄張りが復元可能なレベルで一見の価値がある。
本丸・二ノ丸と東側の帯曲輪→DSC07250.JPG
DSC07237.JPG←西側の長大な堀と土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428275/139.227676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
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ノリパ

軍事駐屯地としての城跡という見方もできるんですね、なるほど。
そのような観点でお城を見たことなかったです。
これからその考え方も加えて見ていきたいと思います。
by ノリパ (2009-01-14 21:25) 

アテンザ23Z

まぁ私見ですので、合っているかどうかは・・・?
いろいろ想像しながら城を回ると面白いです。
by アテンザ23Z (2009-01-15 01:32) 

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