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平瀬城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC08274.JPG←登城道から見える竪堀
 平瀬城は、犀川の東岸の山地に築かれた山城である。犬甘氏の一族平瀬氏が築いたといわれている。信濃守護小笠原氏の本城林城を護る北方の要であったと思われる。1550年に武田信玄が信濃府中に侵攻した際、「イヌイの城」(埴原城?)の陥落に伴って林城を始め5つの城が相次いで自落したが、平瀬城は徹底抗戦を続けた。その年の10月に武田軍が砥石城で村上義清に大敗を喫すると、府中を追われた小笠原長時は息を吹き返し、中塔城や平瀬城などに兵を詰めて抵抗を続けた。しかし、1551年に武田信玄は平瀬城を攻めてこれを下し、城兵204人が討ち死にした。その後、平瀬城には城将として、あの猛将として有名な原美濃守虎胤を入れ、小笠原氏の残党討滅の拠点とした。信濃平定がほぼ完了すると、深志城を兵站・統治拠点とし平瀬城は廃城となった。

 平瀬城は、本城を中心として左右両翼に出城を設け、連携して防御力を高める構造となっている。今回訪れたのは本城だけである(というのも出城へは道無き斜面を直登するしかなく、膝が完治していない状態では訪城不可能だった)。本城は主郭とその前面に2つの小さな曲輪を階段状に配置し、主郭背後には大堀切をまたいで堀切・竪堀で厳重に防御された小曲輪、更に2つほどの広い曲輪が続いている。竪堀の何本かは、登城道の途中でも見れるほど長く伸びている。その先には堀状の通路らしきものが山の稜線に沿って続いているが、逃げ道であろうか。
 竪堀が多用されているほかは比較的シンプルな縄張りで、曲輪の大きさも多くの兵を込められる規模ではない。小笠原氏を追ってこの城を押さえた武田氏も、あくまで戦時下の一時的な城と割り切って使っていたのではないだろうか?そうでなければ、もっと巧妙な縄張りにして規模ももっと大きくしていた気がする。なお、主郭の半分とその前面の曲輪はきれいに伐採されていて、松本平を一望に見渡せる眺望が見事だが、主郭背後の小曲輪は11月下旬でも薮が多く、竪堀などの遺構を見るのが容易ではない。もう少し広い範囲を伐採してくれていると助かったのだが。
 そのうち機会があれば出城も周ってみたい。(後日の出城訪城記はこちら→北城南城
主郭背後の大堀切、→DSC08291.JPG
         薮で何もわからない

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.286944/137.947777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


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