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乙畑城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSC08828.JPG←三重堀切
 乙畑城は、明応文亀年間(1501年)に喜連川塩谷氏が、宇都宮氏と同族でその傘下でもあった川崎塩谷氏(本拠は川崎城)に対する第一線の防衛拠点として築かれたという。喜連川塩谷氏は元々川崎塩谷氏の分家であるが、この時代によくある通り宗家と対立する間柄であったらしい。1522年には宇都宮氏や川崎塩谷氏と戦い、翌年には和睦して、この城を川崎塩谷氏に明け渡したという。1559年(永禄2年)には結城晴朝の軍勢に包囲されて落城し、城将の乙畑孫四郎(川崎城主塩谷孝綱の子)が討死にした。1585年には喜連川塩谷氏を傘下に置く那須資晴がこの城を攻め、乙畑城は降伏、喜連川塩谷氏に属する事となった。そして1590年の豊臣秀吉の関東仕置きに伴って廃城となった。

 乙畑城は、矢板市乙畑にある熊野神社の北に広がる台地突端に築かれた平山城である。一部耕地化して破壊を受けているものの、本丸周辺は遺構が良く残っている。本丸周囲を空堀と土塁をめぐらして防御し、主郭東に続く台地上には三重堀切を構築して厳重に防御している。本丸北西には先端を堀切と段曲輪で防御された平坦地が広がるが、二ノ丸であろうか。また本丸北東には畑化した平坦地が続いていおり三ノ丸だったようだが、改変を受けている可能性が高く、往時がどのようであったのかは定かではない。
 全体に規模はそれほど大きくなく、要害性もそれほど高くなさそうなので、第一線に築いた防御陣地としては弱い印象を受けた。
 なお城の東側を国道のバイパス線を通す工事が進められているが、城址は避けられているようなので破壊を免れラッキーである。
二ノ丸先端の段曲輪→DSC08860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.738506/139.958138/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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