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鉢形城(埼玉県寄居町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC09965.JPG←笹曲輪から見る本曲輪
 この冬の城巡りには、大きな目標が3つあった。そのうちの一つは、小田原北条氏の城を巡り歩くことだった。実は、これまで主要な北条系城郭には行ったことがなかったのだ。小田原城は昔3度ほど行ったことがあるが、ただ単に復元天守に登っただけで、まともな城郭巡りと呼べるものではなかった。もちろん当時は、城の縄張りなど知りもしないし考えたこともない頃である。そして今回、満を持して訪れたのが、北条氏の北の重要拠点、鉢形城であった。

 鉢形城は、関東管領山内上杉氏家宰である長尾氏の一族長尾景春が築いた城と伝えられている。景春の父、白井長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後、家宰職は景信の弟・総社長尾忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、白井長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。これが1473年6月のこと。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、反旗を翻した。世に言う長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力武家を味方に誘い込み、大きな規模の反乱となった。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。道灌は極めて有能で、乱の初期の段階で各地の反乱勢力を撃破して景春の動きを封じ込め、鉢形城を囲むに至った。しかし長尾景春は、両上杉氏と仇敵の間柄となっていた古河公方足利成氏まで担ぎ出したため、上杉方は一旦囲みを解いて上杉氏の守護管国の上野を防衛し、成氏と講和を結んだ後、再び鉢形城を囲みこれを陥とした。城を逃れた景春はこの後も熊倉城日尾城など奥秩父で抵抗を続けたが、ついに城を落とされ降伏した。

 景春が落ちた後の鉢形城は上杉氏の持ち城となったが、1546年、両上杉氏が新興勢力の小田原北条氏の若き3代当主北条氏康に河越夜戦で大敗を喫すると、北条氏が関東南半の覇権を握り、関東諸将は雪崩を打って北条氏に服した。この時、武蔵天神山城に本拠を置く北武蔵の有力国人藤田康邦は、北条氏康の三男・氏邦を養子に迎え、自らは用土城に隠居。(実態はもちろん体のいいお家乗っ取りであるが。)後に氏邦は本拠を鉢形城に移し、北武蔵の一大軍事拠点として大規模な改修を行った。
 その後、鉢形城は、武田信玄の攻撃にも落ちなかったが、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、前田利家、上杉景勝らの大軍に攻められ1ヶ月の篭城戦の末に降伏し、そのまま廃城となった。氏邦は死一等を減じられて前田利家に預けられ、金沢で生涯を終えた。

 奥秩父より、名勝地である長瀞を抜けて東流する荒川。鉢形城は、その荒川に臨む断崖上に築かれた城である。地勢は要害堅固、その城域は極めて広大で、近世平城に全く引けをとらない規模のものだ。荒川とその支流深沢川の合流点に笹曲輪を、それに続いて本曲輪(御殿曲輪)、二の曲輪、三の曲輪(秩父曲輪)、更にその外に幾重にも外曲輪を設けた縄張りとなっている。各曲輪は屈曲した横堀で分断されており、土橋や馬出しの遺構もよく残っている。鉢形城は国の史跡に指定されているため、かなりの規模で発掘復元がされており、特に三の曲輪では、庭園跡や石垣跡が再現されている。また本曲輪には小規模ながらも石垣が残るほか、周囲の土塁や腰曲輪が残るなど、往時の城の姿が目に浮かびそうである。最もすばらしいのは城の南端に残る逸見曲輪周囲で、その周囲の空堀は近世平城の規模そのものである。
 現在に残る平城は、そのほとんどが近世に入ってからの大規模な改修を受けており、鉢形城のようにそれ以前の戦国期の城郭の姿をそのまま残す平城は極めて稀である。そのため鉢形城は、戦国末期に中世城郭が近世城郭に変貌する過渡期の大城郭の姿を我々の前に残してくれているのである。

 一体、この巨大な城郭にはどれほどの兵が駐屯していたのだろう。北条氏にとってこの鉢形城は、まさしく北関東制圧のための最重要拠点であった。鉢形城は、そのための大兵力を駐屯させる最前線司令部であったのだ。
広大な二の曲輪→DSC10026.JPG
DSC10101.JPG←逸見曲輪の馬出し
逸見曲輪外堀→DSC10104.JPG
DSC10134.JPG←二の曲輪の堀
外曲輪の土塁と外堀→DSC10177.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.109360/139.195799/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

 なお、期せずしてちょうど当ブログ300個目の記事が鉢形城になった。偶然とはいえ北条ファンの私にとっては非常にうれしいことである。(一応当ブログでは、特に断りのない限り訪城した順に書いています。)
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ノリパ

すごいですね、空堀、土塁。何もなかった所に歴史の爪痕が残って
いるという感じの空堀ですね。開発を受けていない地域だから
残っているんでしょうね。この間の小幡城もそうですが、
平地に思い切り絵を描くみたいな広大な発想がありますよね。
by ノリパ (2009-03-11 22:01) 

アテンザ23Z

>ノリパさん

本当に開発を受けてなくてよかったと思います。
戦国末期の状態をそのまま保存した城郭は、
それだけでも希少価値があるので、すばらしいです。
by アテンザ23Z (2009-03-12 00:59) 

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