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腰越城(埼玉県小川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC02353.JPG←帯曲輪の横堀
 腰越城は、安戸を本拠地とし、松山城主上田氏の家老を務めた山田伊賀守直定の居城と伝えられている。元々は源平争乱期の1180年に山田伊勢守清義が宇治川の先陣に敗れたのち籠居するために築城したもので、以来山田氏累代の居城となったと言う。直定の弟の直安は青鳥城の城主で、山田一族は上田氏の麾下で大きな勢力を持っていたことが伺われる。また山田氏の主君上田氏の菩提寺である浄蓮寺はこの腰越城から西にわずか2km程のところにあり、上田氏との強い結びつきが感じられる。

 小田原北条氏の勢力が武蔵の地を圧してからは、上田氏は北武蔵の武士団を統括する松山衆として、北武蔵における一大勢力となって北条氏家中で重きを成した。扇谷上杉氏と北条氏の抗争、そして北条氏と上杉謙信の相続く抗争の中で、松山城を落とされた上田氏は一度ならず本貫の地である安戸に逃れたが、その際にも安戸の入口を押さえるこの腰越城は重要な役目を負っていたと考えられる。何より腰越城は、三方を蛇行する槻川で囲まれた屈指の要害の地に築かれた山城で、東は中城青山城をはじめとする松山城の支城群をはるかに望むことができる絶好の陣場でもあり、青山城から更に小倉城菅谷城(館)、青鳥城を経由して松山城へとつながる支城ネットワークを成していたと考えられるのである。

 腰越城は、極めて独特な縄張を持つ城で、各曲輪間の高低差が非常に大きいのが特徴である。主郭背後の切岸などは高低差が20mほどもあるのである。また腰曲輪も巧みに高低差をつけて配置されているので、曲輪間での見通しが利かずまるで迷路に迷い込んだような状況になるという、非常に技巧的な構造となっている。要所を堀切・竪堀・横堀で分断防御しており、面白いのは竪堀が堀切風に曲輪の分断に用いられていることである。また囮虎口という巧妙な仕掛けまで設けている。恥ずかしながら私は「囮虎口」という言葉は、この城に来て始めて知った。また一部の土塁には小規模ながら石積みを見ることもできる。堀切はどれも鋭く穿たれ、腰曲輪などの虎口も極めて小さく竪堀状に構築され、大きな防御性を発揮しただろう。全体としては割とこじんまりした城であるが、その巧みな縄張は杉山城と並び出色のものである。こうした城を、支城のそのまた支城に持っていたという北条氏とは、なんと大きな大名であったことか、今更ながら知る思いである。
腰曲輪の竪堀状の狭い虎口→DSC02330.JPG
DSC02355.JPG←腰曲輪の竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.045022/139.231925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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コメント 4

ノリパ

囮虎口ですか。まったく知りませんでした。ググったら、いろんな方の
ページがありました。すごいですね、参考にします。
by ノリパ (2009-05-04 18:17) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
まだまだ知られざる築城技法があるんでしょうね。
私ももっと勉強しないと・・・。
by アテンザ23Z (2009-05-05 00:51) 

お名前(必須)

囮虎口とはいえ、なかなかの傾斜のように思いました。逆に丁度登りたくなる角度にして、石などあえて積んだのでしょうか?怖いですね~((( ;゚Д゚)))
by お名前(必須) (2021-12-20 02:00) 

アテンザ23Z

>お名前(必須)さん
当ブログを訪問いただきありがとうございます。
囮虎口ですが、今更ながら見ると、ただの竪堀と言う感じもしますね。しかし他の城で、囮虎口のような遺構に出くわすこともあり、わりとよく使われた技法だったのかもしれません。
by アテンザ23Z (2021-12-20 22:39) 

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