御嶽城(埼玉県神流町) [古城めぐり(埼玉)]
←ニノ郭の大堀切
御嶽城は、武蔵七党の一つ丹党の一流安保氏の築いた城である。1480年に安保吉兼によって築かれたと言う。安保氏は承久の乱などでも登場する古くからの豪族で、室町時代には古河公方の足利成氏と密接な関係を築いていた。その後、小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばし、1552年に北条氏康が関東管領上杉憲政を越後に遂うと、同年の御獄城合戦で御獄城を氏康が攻略し、以後安保氏は北条氏の支配に入ったと思われる。武蔵と上野の国境に当たる要地を押さえていた安保氏は、北条氏から支城主として重視されたらしく、北武蔵の最前線の軍事指揮官であった北条氏邦の組織下に入る一方で、本家の北条氏康・氏政とも結びついていたようである。甲斐の武田信玄が西上州に勢力を伸ばし北条氏と衝突するようになると、1569年に御嶽城は両者の激しい争奪の場となった。このころ安保氏の事績は消え、1570年には長井政実が御嶽城に入っており、以後、長井氏が城主として在城したようだ。廃城時期ははっきりしないが、1590年の小田原の役の時と推定される。
御嶽城は、金鑽神社の背後の山に築かれた峻険な山城で、その縄張から推し量るに詰城という以外の何者でもない。本郭の周囲は急傾斜の断崖で囲まれ、ここに登るのは容易ではない。本郭の東から北にかけて腰曲輪が取り巻き、そこより一段低い北西部にニノ郭を置く。腰曲輪とニノ郭の間は堀切で分断し、更にニノ郭の先には岩山を削り取った5m以上の絶壁を持つ大堀切があり、これは斜面を迂回しなければ越えることができない。その先には小さな段曲輪が続くようだが、藪がひどくよくわからない。本郭周囲の腰曲輪から西に、堀切を越えて尾根道を西に行くと、北の斜面下には数段の平場が見られ、馬場か屋敷が置かれていたのではないかと思われる。一方、西尾根の堀切を越えた先には広めの平場があり、これが西ノ郭である。西ノ郭の北は登り斜面となり小山がそびえている。この小山は明確な削平はされていないが、その北側下に腰曲輪があり、城の西側一帯を見下ろす絶好の位置であることからして、物見の役目を負っていたことは間違いないと思われる。
以上が城の構造であるが、本郭の周囲が急峻すぎるせいか防御する曲輪が少なく、段曲輪はあっても規模が小さくあまり相互の連携も取れているようには見えない。とても多数の兵を篭められる城ではなく、北条・武田の争奪の場となった割には、普請の不徹底な城に感じられた。その急峻さが最大の武器だったのだろうか?それにしても本郭も含めて全体に藪が多く、しかも至る所に荊が生えていて危険で歩きにくい城だった。
尚、麓の金鑽神社には、安保弾正全隆が1534年に寄進した多宝塔が残っている(国重要文化財)。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.178536/139.068696/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
御嶽城は、武蔵七党の一つ丹党の一流安保氏の築いた城である。1480年に安保吉兼によって築かれたと言う。安保氏は承久の乱などでも登場する古くからの豪族で、室町時代には古河公方の足利成氏と密接な関係を築いていた。その後、小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばし、1552年に北条氏康が関東管領上杉憲政を越後に遂うと、同年の御獄城合戦で御獄城を氏康が攻略し、以後安保氏は北条氏の支配に入ったと思われる。武蔵と上野の国境に当たる要地を押さえていた安保氏は、北条氏から支城主として重視されたらしく、北武蔵の最前線の軍事指揮官であった北条氏邦の組織下に入る一方で、本家の北条氏康・氏政とも結びついていたようである。甲斐の武田信玄が西上州に勢力を伸ばし北条氏と衝突するようになると、1569年に御嶽城は両者の激しい争奪の場となった。このころ安保氏の事績は消え、1570年には長井政実が御嶽城に入っており、以後、長井氏が城主として在城したようだ。廃城時期ははっきりしないが、1590年の小田原の役の時と推定される。
御嶽城は、金鑽神社の背後の山に築かれた峻険な山城で、その縄張から推し量るに詰城という以外の何者でもない。本郭の周囲は急傾斜の断崖で囲まれ、ここに登るのは容易ではない。本郭の東から北にかけて腰曲輪が取り巻き、そこより一段低い北西部にニノ郭を置く。腰曲輪とニノ郭の間は堀切で分断し、更にニノ郭の先には岩山を削り取った5m以上の絶壁を持つ大堀切があり、これは斜面を迂回しなければ越えることができない。その先には小さな段曲輪が続くようだが、藪がひどくよくわからない。本郭周囲の腰曲輪から西に、堀切を越えて尾根道を西に行くと、北の斜面下には数段の平場が見られ、馬場か屋敷が置かれていたのではないかと思われる。一方、西尾根の堀切を越えた先には広めの平場があり、これが西ノ郭である。西ノ郭の北は登り斜面となり小山がそびえている。この小山は明確な削平はされていないが、その北側下に腰曲輪があり、城の西側一帯を見下ろす絶好の位置であることからして、物見の役目を負っていたことは間違いないと思われる。
以上が城の構造であるが、本郭の周囲が急峻すぎるせいか防御する曲輪が少なく、段曲輪はあっても規模が小さくあまり相互の連携も取れているようには見えない。とても多数の兵を篭められる城ではなく、北条・武田の争奪の場となった割には、普請の不徹底な城に感じられた。その急峻さが最大の武器だったのだろうか?それにしても本郭も含めて全体に藪が多く、しかも至る所に荊が生えていて危険で歩きにくい城だった。
尚、麓の金鑽神社には、安保弾正全隆が1534年に寄進した多宝塔が残っている(国重要文化財)。
本郭虎口、急斜面である→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.178536/139.068696/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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