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塩沢城(埼玉県小鹿野町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC04860.JPG←塩沢城主郭
 塩沢城は、謎の城である。伝承では主家山内上杉氏に反旗を翻した長尾景春が、太田道灌に攻め込まれて秩父を転戦しつつ落ち延びた際、拠点の一つとした「高佐須城」がこの塩沢城のことと考えられている。景春はこの城を築いて一時期籠城したが、敗れて再び落ち延びて日野要害(熊倉城)に移ったという。付近には「夜討沢」など長尾景春の伝承にまつわる地名が残るが、確実な資料がなく、伝承の域を出ない。そもそも景春の敗走ルートが定かではないので、景春の乱の終焉地が熊倉城だとして、その前は日尾城に籠もったのか塩沢城に籠もったのかわからない。その後の城の歴史も定かではない。

 塩沢城は、沢沿いの塩沢集落からの比高330m程で、山の斜面に平場をいくつか設けた簡単な構造である。城への登り口に、長尾景春が建立したという塩沢宇賀神社があり、ここに車を止めて、あとは延々と山道を登るだけである。途中、登り道を監視する櫓台のような地形もあるがはっきりしない。20分ほども登るとようやく第1の平場に至る。しかし土塁も何もなく、ただ平坦地が広がるのみである。更にそこから登っていくと、途中に腰曲輪のような地形がいくつか見られるが、削平が甘くはっきりしない。それらを越えてようやく主郭に到達する。ここも土塁も何もない、ただの平場である。しかし第1の平場といい主郭といい、人為的に削平したことが明瞭なので、やはり何らかの意図を持って造った城だったのだろう。主郭の更に上にも第3の平場と言われる小曲輪と、その先標高760mのピークに鐘撞場とされる場所があり、その先の尾根にはこれまたはっきりしない小堀切があって城域が終わる。
 全体に普請が中途半端でよくわからない城という印象である。堀切・竪堀はおろか曲輪を守る土塁さえなく、比高だけが唯一の武器ではないかという城だ。景春敗走途中の俄か造りの城だったと考えれば、まんざらただの伝承ではなく事実だったのかもしれない。戦国後期に使われた形跡がないことだけは確かなので、戦国後期の小田原北条氏と甲斐武田氏の秩父地方を巡る抗争の中では、すでに忘れられた城であったのかもしれない。
第1の平場→DSC04843.JPG
DSC04855.JPG←腰曲輪か?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆

タグ:中世山城
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