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高楯城(山形県上山市) [古城めぐり(山形)]

DSC07399.JPG←巨大な東空堀
 高楯城は、上山市街の西にそびえる比高130m程の虚空蔵山に築かれた山城である。最上氏の祖である斯波兼頼の息子直家の次男頼直が天童に封じられ、その子満長が1403年頃に上山に分封されて上山氏を称し、居城として築いた城と伝わっている。別名亀ヶ岡城とも呼ばれ、代々上山氏の居城となった。この地は置賜地方を領有する伊達氏と領界を接する境目の城であった為、何度も攻防が繰り返された。1514年伊達稙宗の侵攻により、上山義房は破れて山形へ退き、伊達氏の家臣小梁川親朝が城主となった。しかし、1535年に上山義房の子の武衛義忠がこの地をを奪還して、新たに平山城である上山城を築いて居城とした。その後、義忠の孫の上山満兼の時、最上義守・義光親子の争いが起こり、義光は上山氏の家臣里見越後・里見民部父子を調略によって抱き込み、満兼を殺害させて里見氏を上山城主とした。

 時代は下って豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康と上杉景勝の間の緊張が高まると、里見民部は高楯城を整備し直し、1600年慶長出羽合戦が生起すると、高楯城に拠って上杉勢の来攻に備えた。しかし里見民部率いる最上勢は、籠城することなく果敢に撃って出て広河原で激戦が展開され、上杉勢を敗走させて最上勢唯一の勝利を得ることとなった。後には、最上義光の5男兵部大夫光広(義直)が城将となった。

 当初高楯城には中山城の後に行こうとしたが、現地解説板によると思いのほか城域が広いらしく、日没までの時間が足りなそうだったので、その時は訪城を断念し1週間後にリトライした。高楯城は、虚空蔵山山頂に主郭を置くが、この山自体は傾斜が急で腰曲輪ぐらいしか築くことができない為、周辺の高台も曲輪として取り込んでおり、かなり広大で普請も大規模な城となっている。台地上の曲輪は2つあり、白土平と北平と呼ばれている。それぞれかなりの広さを持っているほか、多くの腰曲輪で周囲を防御している。更にこの城の目玉になるのは、大規模な空堀があちこちにあることで、主郭の西側麓には二重空堀(主郭1号空堀・2号空堀)、白土平の北側にも二重空堀(白土平1号空堀・2号空堀)、北平の東側には二重空堀が2つ(北平1号~4号空堀)設けられており、更に東の平野部の外れに東空堀が存在する。いずれの堀も規模が大きく、小さいものでも深さ5m程、大きいものは深さ10m以上に達する。主郭1号空堀の上部には櫓台が設けられており、堀底を監視できるようにしている。また白土平を囲む空堀の外側には、白兵戦用の塹壕と思われるタコツボ遺構も残っている。大きさは70~80cm位の穴が横一列に作られている。一方、山上の主郭はほとんど単郭に近く、虚空蔵尊の裏に弁天水と呼ばれる井戸があるほかは、特に土塁も築かれていない。ここからの眺めは素晴らしく、上山市街を一望することができる。

 登山道は整備されているものの、白土平も北平もかなり藪化しており、夏場の訪城は厳しいと思われる。しかし大規模な空堀がほぼ完存し、慶長出羽合戦前夜の緊張感をみなぎらせた素晴らしい城跡である。
北平腰曲輪から見た二重空堀→DSC07675.JPG
       (北平3号・4号空堀)
DSC07716.JPG←これまた大きな白土平2号空堀
白土平の腰曲輪群→DSC07702.JPG
DSC07736.JPG←白土平外郭のタコツボ遺構

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.157777/140.260617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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