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小国城(山形県最上町) [古城めぐり(山形)]

DSC08693.JPG←ニノ郭手前の虎口
 小国城(最上町)は、元は岩部ノ楯と呼ばれ、在地勢力の細川氏の居城である。この細川氏は、足利一門で三管領家の一として名を連ねる名門細川氏の庶流と思われるが詳細は不明。しかし、細川摂津守「直元」という名乗りから、一族であることは間違いないだろう。(ちなみに応仁・文明の大乱を引き起こした当事者の一人が、時の管領細川「勝元」である。)戦国末期以前の小国細川氏の歴史は定かではなく、歴史上に明確に名を現わすのは、その滅亡の時である。即ち、天童頼澄を滅ぼした最上義光はその勢いで北へ進軍し、1580年に山刀伐峠を越えて小国郷の細川直元を攻めた。その兵数3,500と言われ、迎え撃つ細川勢と万騎野原で激突した。しかし細川勢は兵数わずかに300程度と言われ、衆寡敵せず短時間の内に全滅し、岩部ノ楯は炎上、その城下町も灰燼に帰したという。義光は、この戦いで格別の功のあった蔵増城主倉津安房守に小国郷を賜り、その嫡子が改名して小国日向守光基となって小国郷に入部し、岩部ノ楯を改修して小国城を築いた。後、1622年に最上氏が改易になると、小国城は廃城となった。

 小国城は、最上町を流れる絹出川左岸を北から伸びている山地の南端に築かれた山城である。比高は80m程で山の傾斜もきつくはないので、峻険さはそれほど感じない。頂上から順に南側に向かって、本郭・ニノ郭・三ノ郭を階段状に配しており、その周辺にも腰曲輪や段曲輪を幾つも備えている。ニノ郭と三ノ郭の間は横堀で分断していて、その横堀の東端の下には、本郭へ続く枡形状の虎口が設けられている。本郭は北側に土塁と横堀を作ってその北側の曲輪と分断している。北の曲輪は本郭とほぼ同じ高さに位置し、本郭の北側を防衛する役目を負っていたのだろう。三ノ丸から西の腰曲輪へ降りる虎口は巧妙に横矢の掛かるな構造になっている。また南の山腹には多数の腰曲輪を持ち、かなりの兵が詰めることができたようだ。山麓の平野部にも遺構があったようだが、見性寺付近にある外堀跡以外はよくわからなかった。

 全体に遺構はよく残っており、中山城に似た感じの城と感じられた。
本郭北側の横堀→DSC08719.JPG
DSC08823.JPG←見性寺付近の外堀跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.756666/140.527500/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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