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鮭延城(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

DSC09018.JPG←二重横堀の一つ
 鮭延城は、真室城とも言い、鮭延氏の居城である。鮭延氏は元々近江源氏佐々木氏の一族で、南北朝随一の梟雄佐々木道誉(後の京極氏)や六角氏と同族に当たる。15世紀の末頃、佐々木綱村の時に一族を率いて近江から出羽に下向し、仙北小野寺氏の客将となったという。貞綱の時に小野寺氏の南進拠点として真室郡に派遣されて岩鼻館を築いて居館とし、1535年に前線基地として鮭延城を築いた。後の1563年に、庄内武藤氏(大宝寺氏)の攻勢に敗れて本拠を鮭延城に移し、以後鮭延氏を称した。1581年、反抗する一族を討滅して国内を従えた最上義光は、重臣氏家尾張守守棟を将として鮭延城を攻めた。時の鮭延氏当主は越前守秀綱で、若冠16歳ながら優れた武将で、長期の籠城戦の後降伏し、以後、最上氏の部将として庄内攻防戦などで活躍した。殊に1600年の慶長出羽合戦のクライマックス、長谷堂城合戦では最上方援軍として奮戦し、その活躍は後世の語り草となり、敵将直江兼続も感嘆し、兼続から褒美が贈られたと伝わっている。1622年の最上騒動の折には、反義俊派の中心となり、これが元で最上氏は改易となり、鮭延秀綱は2代将軍徳川秀忠の重臣土井利勝に預けられた。のち許されると、利勝は秀綱を5千石の高禄で召抱えた。秀綱は、改易以来秀綱を慕って従ってきた家臣たちに俸禄を全て分け与え、彼らに養われて下総古河城下で没したという。その墓は、秀綱の威徳を慕った家臣が建立した鮭延寺に残っている。一方、鮭延城は最上氏改易の後、戸沢政盛が入城したが、後に新庄城を築いて移ると、廃城となった。

 鮭延城は、真室川左岸に広がる丘陵の西端に築かれた平山城である。非常に珍しい縄張で、とにかくだだっ広い主郭がほとんどで、あとは腰曲輪がある程度でほぼ単郭に近い。これほどの広さの平山城で単郭というのはあまり例がない。主郭はとにかく広く、サッカー場が丸々入るぐらいである。主郭全体はどうもアフリカ大陸の形に近い形状のようで、アフリカの角と呼ばれるソマリアに当たる部分に大手虎口がある。ここから下っていく大手道は藪化で道筋がはっきりしないが、両側に幾つもの腰曲輪があるようだ。搦め手虎口は南西の内側に折れ曲がった部分にある。こちらにも登城道の両側に腰曲輪が見られる。南端に向かって主郭はすぼまっていて、南端に虎口があって腰曲輪に降りられる。この南側付近の腰曲輪にだけ、明確に土塁が築かれていて、防衛意識が高かったことがわかる。また主郭の東端の台地との繋ぎの部分には、二重横掘があって分断している。この横堀は一部車道で破壊があるがよく残っている。主郭のほぼ全周に渡って腰曲輪が取り巻いているようだが、搦め手道の両側の腰曲輪にだけ、竪堀らしい跡がいくつか残っている。

 城は広いが、縄張が単調である上、全体に藪がひどい。特に大手虎口は完全に藪に埋もれており、その形状を掴むのが容易ではない。整備が行き届けばと惜しまれる。
主郭南西側の腰曲輪→DSC09046.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.844166/140.247777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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