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花巻城(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSC09796.JPG←本丸と馬出し間の堀跡
 花巻城は、かつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、奥州の大名稗貫氏の居城であった。言伝えでは、前九年の役の際に、安倍頼時が築いた城柵とも、清原武則の城柵とも言われるが、定かではない。稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に入った経緯も諸説あってはっきりしないが、1559年に小瀬川館(城)から移ったとも、享禄年間(1528-32年)に本館(十八ヶ城)から移ったとも言う。いずれにしても、稗貫氏がこの城に本拠を定めたのは、戦国後期のことだったと思われる。1590年小田原の役が起こったが、稗貫氏は参陣しなかった為に、奥州仕置で改易されて没落し、一時期浅野長政の家臣浅野重吉が鳥谷ヶ崎城に城代として入ったが、1591年には南部領となり、城代として南部信直の家臣北秀愛が入って、城の名を花巻城に改め、稗貫・和賀郡の支配拠点とした。秀愛が死ぬと、その父で信直の重臣北信愛(入道して松斎)が城代となって、南の守りに当たった。関ヶ原の戦いの折には、南部利直が出羽に出陣中の虚を衝いて、改易された和賀氏などが蜂起して花巻城を攻めたが、信愛は見事に寡兵で守り切り、南部氏のこの地の支配を決定的なものとした(花巻城の夜討ち)。以後、南部藩の支城として南の伊達領に備える要衝として城代が置かれ、幕末まで存続した。

 花巻城は、北上川右岸の比高20m程の河岸段丘上に築かれた平山城である。南部領となってから近代城郭として大々的に整備されたらしく、中世城郭の面影はほとんど見られない。北を流れる瀬川沿いの断崖上に本丸を置き、南に二ノ丸・三ノ丸を順に並べた梯郭式の縄張である。現在、本丸は公園、二ノ丸は花巻小学校、三ノ丸は市街地と変貌しているが、全体に遺構はよく残っており、本丸周囲の土塁・水堀・復元西御門はもとより、馬出しや二ノ丸の土塁などもかなり明瞭に残っている。そして、なんと言っても驚くのは、かつての外堀跡が駐車場などに変貌しつつも、ほぼ往時の面影を残した地形のまま掘り下げられていることだ。普通ならば完全に埋められて、痕跡しか残していないところだが、花巻城の場合は、堀底に駐車場が作られたりしているのである。また、街中の至るところに親切に標柱が立っているので、当時の城の遺構を追うのが非常にわかりやすい。

 近世城郭としては規模は小さめであるが、市民から大切にされていることが伺われる良い城跡である。
濁り御堀(外堀)跡→DSC09833.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.391665/141.119728/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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