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金窪南城(埼玉県上里町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC10115.JPG←陽雲寺境内の土塁跡
 金窪南城は、おそらく金窪城の出城と考えられるが、詳細はよくわからない。日本城郭大系では単に「南城」という名で記載されている。大畠長門守昌広の築城と言われ、陽雲寺の場所にあったとされるが詳細はよくわかっていないらしい。
 徳川家康が関東入封した時に金窪城に陣屋を置いた川窪氏は、実は武田信玄の甥の武田信俊で、金窪城主斎藤左衛門尉盛光が1540年に創建した陽雲寺が神流川の戦いで消失していたのを再興し、信玄夫人の陽雲院をここに住まわせたと言う。その関係で、陽雲寺には武田氏関係の書状や信玄夫妻の画像などが残っている。
 城址遺構としてはほとんど壊滅に近いが、境内の北側に土塁跡らしい土盛りが見られる。

 尚、金窪城の初期の城主と伝えられる、新田義貞の家臣畑時能の供養塔が境内に残っている。時能は新田四天王の随一と呼ばれ、長瀞の出身であったが、義貞に従って北陸に転戦し南朝方として戦い、1339年に越前で足利方の斯波高経に討たれた。従臣の児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し、金窪の地に持ち帰って供養したものだそうである。その横には、畑時能の後裔と言われる陸軍元帥畑俊六の碑が建っている。そうか、米内さんが東京裁判でかばった畑俊六は新田義貞の家臣の末裔だったのか・・・。新たな驚きである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.264388/139.134357/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世平城
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