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石田堤〔附三成本陣跡〕(埼玉県行田市・鴻巣市) [その他の史跡巡り]

DSC00579.JPG←堤根地区の石田堤
 石田堤は、小田原の役の際に石田治部少輔三成が忍城を攻めるに当たって築いた堤跡である。いわゆる「忍城の水攻め」である。これは沼地に囲まれた水城の忍城を攻めあぐねた三成が、秀吉の備中高松城攻めを真似て忍城を水攻めにしようとしたものである。全長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われている。ただ解説板に拠ればゼロから築いたものではなく、自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものであったらしい。解説板の建つ堤も、自然堤防上に1~2m程盛土をしたものだそうである。
 堤が完成し、利根川・荒川の水を引き入れたが、地形的に城や城下町より下忍・堤根方面に水が溜まってしまい、遂には堤が決壊して水攻めは失敗に終わった。結局小田原城が開城してから、成田氏長の使者の命で開城するまで、忍城は攻囲に耐え続けたという。

 以上がこれまでの一般的に流布している説であるが、最近の研究では、水攻めは三成の発案ではなく、秀吉の発案であった可能性が指摘されている。水攻めについてのかなり細かい指示を出している秀吉の書状が残っているからである。浅野弾正少弼長吉が援軍として遣わされたが、皿尾口で合戦して首級30を挙げたのに、水攻めだからそうした行為を慎むようたしなめた秀吉からの書状も残っている。また戦況がはかばかしくなく総大将を外される不安を抱いていた三成に対して、わざわざそれを打ち消す文言も秀吉が書いていることも興味深い。

 石田堤は現在、行田市堤根地区の新忍川沿いに数百mにわたって土塁のように残るほか、その南続きの鴻巣市側では石田堤史跡公園として整備されている。あまり期待していなかったが、重厚な堤が延々と続いているのは、なかなか見応えがある。
史跡公園南に残る石田堤→DSC00605.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.106468/139.473817/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【石田堤史跡公園】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.104388/139.473989/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 また、さきたま古墳公園の中に残る丸墓山古墳は、高さ19m、直径105mもある国内最大の円墳で、これが忍城水攻めの際に三成が本陣を置いた場所と伝えられている。この古墳から南に伸びる、周囲よりやや高い道も石田堤の一部だそうである。この古墳周囲には見事な前方後円墳が幾つも見られ、なかなか興味深い。
DSC00567.JPG←丸墓山古墳

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.129314/139.478474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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コメント 4

fuzzy

秀吉は三成の忠誠心と官僚的手腕は認めていたが、武将としては認めていないでしょう。細かな指示はもっともですね。もし武将として名を高めていたら関ヶ原は違った結果と思われます。
さきたま古墳群、関東に大和に優る規模の王国が存在したと思います、消滅の経緯はわかりませんが?
by fuzzy (2009-10-26 16:35) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
実際に三成がどういう人物であったのかは、虚実入り混じっていてよくわかりませんが、関ヶ原で歴戦の武将島津義弘の協力を得られなかったところを見ると、へりくだって人の意見を聞くタイプではなかったのでしょう。それができていれば、もう少し武将としての功績が残ったかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2009-10-26 23:49) 

ノリパ

立派な堤防、というか土塁を短期間に造るところから考えても、
仕事はそつなくやるタイプだったんでしょうね。三成さんは。
by ノリパ (2009-11-01 07:29) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
実務的官僚肌だったんでしょう。だから猛将タイプの加藤清正や福島正則とは合わなかったんでしょうね。
by アテンザ23Z (2009-11-01 21:17) 

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