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新田義貞墓所(福井県坂井市) [その他の史跡巡り]

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(2003年10月訪問)
 新田義貞は南朝軍の総帥であったが、1336年に九州から再挙東上してきた足利尊氏に京都を制圧され、叡山に逃れた後醍醐天皇が尊氏との和議に応じて下山すると、恒良親王と尊良親王を戴いて、軍勢を率いて北陸に落ち延びた。しかし最初に拠った金ヶ崎城は、苦しい籠城戦の末陥落し、恒良親王は捕らわれ、尊良親王と義貞の嫡子義顕は自刃して果てた。義貞は舎弟脇屋義助と共に杣山城に逃れ、しばらくして福井平野で体勢を立て直し、足利軍の斯波高経と攻防を繰り広げた。その攻防のさ中の1338年閏7月、藤島城を攻め落とせない味方の加勢の為、少数の兵を率いて行軍の最中、黒丸城を発した斯波勢と灯明寺畷で遭遇し合戦となった。そして義貞はこの戦いであっけない最期を遂げた。斯波高経は、同じ源氏の武門に生まれた義貞の死を惜しみ、時宗の僧に命じて遺体を称念寺に送り、菩提を弔わせたという。
 称念寺は、このほかに浪人時代の明智光秀がこの寺の世話になり、門前で寺子屋を開いていたとも伝えられている。また戦国時代の一時期は、長崎城と言う城であったと言う。(お参りした当時は城であったことを知らなかったし、遺構らしいものもなかったと思う。そのため城としてではなく、墓所として記載した。)
 称念寺には、江戸時代に福井藩によって再建された義貞の墓石が残り、現在新田義貞墓所として大切に保存されている。上野の野から起った義貞は、遠いこの北陸の地で静かに眠っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.144338/136.251326/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:墓所
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コメント 2

fuzzy

新田義貞公は大切に葬られていますね、運が向けば朝廷軍を束ね天下一の武家に成れたのですが、後醍醐天皇にいい様に使われ損な役回りをさせられました。福井県所縁の武将は最後は無念な終焉を迎えていますね新田義貞公・朝倉義景公・柴田勝家公・明智光秀公です。
by fuzzy (2009-12-01 14:01) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
福井はいにしえの越前ですが、越前は敦賀湊や三国湊など京へ通じる重要な交易地を持ち、日本海の海運を利用した北国交易の要地だったので、争奪が激しかったということも、越前の武将が不運であったことと関係しているのかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2009-12-02 23:26) 

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