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新田塚(福井県福井市) [その他の史跡巡り]

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(2003年10月、2004年4月訪問)
 福井市の中心から北北西へ直線で約3kmの位置にその地名はある。新田塚。新田義貞が戦死した場所とされている。

 新田義貞は、1336年後醍醐天皇の命で叡山から北国に下され、悲惨な逃避行の末に拠った越前金ヶ崎城は半年間の籠城戦の末に落とされ、義貞は舎弟脇屋義助と共に杣山城に逃れることとなった。その後しばらくして福井平野で体勢を立て直した義貞は、足利方の越前守護斯波高経と、激しい攻防戦を繰り広げた。その攻防のさ中の1338年閏7月、平泉寺宗徒の立て籠もった藤島城を攻め切れない味方の加勢の為、少数の兵を率いて行軍の最中、黒丸城を発した斯波勢と灯明寺畷で遭遇し合戦となった。太平記では、この時撤退を勧める部下の進言を退けて義貞は果敢に突進したが、猛烈な矢戦で馬を射られて深田に倒れ、馬の下から這い上がろうとしたところを眉間の真ん中に矢が当たってあっけない最期を遂げたと伝えている。斯波方も初めは討ち取った敵方の武将が義貞とはわからず、高経が確認して義貞本人と判ったと言う。高経は同じ源氏に生まれた義貞の死を惜しみ、時宗の僧に命じて遺体を長崎称念寺に送り、菩提を弔わせたという。

 それから遥かに時代が下って江戸時代の1657年、水田を耕していた農民が土中から鉄製の兜を掘り出した。これを福井藩の軍学者井原番右衛門が鑑定したところ、かなり高位にあった武将のものと推定されたことから、この付近で戦没した新田義貞のものと結論付けた。(この兜は現在、藤島神社に現存している。)このことから、この地が新田義貞の戦死地と考えられるようになり、福井藩主松平光道は1660年にこの地に石碑を建てた。以来、この地は新田塚と呼ばれて、その石碑は大切に保存されて現在に至っている。

 かつては周囲を一面の水田に囲まれていたというが、現在では完全に市街化され、わずかに公園として残っているこの地だけが、悠久の時を静かに刻んでいる。

 私は別に義貞ファンというわけではないが、遠い上野(群馬)の地から起った義貞が、苦難の末にこの地で没したことを思うと、胸の中に熱いものを感じざるを得なかった。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.088193/136.209204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:墓所 古戦場
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fuzzy

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
本年最初は、新田義貞公でスタートですね、討幕の功労は多大であっつたのに、無念の最期を迎えた義貞公でしたね。今年も歴史を楽しみたいと思っております。アテンザ23Zさんも、古城巡りがんバッつてください。
by fuzzy (2010-01-01 10:13) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
明けましておめでとうございます。
こちらこそ本年もよろしくお願いします。
義貞のあまりに早すぎる死は、
結果として義貞の評価も低くしてしまっています。
それほど無能な大将ではなかったと思うのですが・・・。
by アテンザ23Z (2010-01-01 14:09) 

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