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安倍館(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC02915.JPG←本丸の土塁と空堀
 安倍館は、厨川柵又は厨川城とも言い、前九年の役で源頼義と戦って滅ぼされた俘囚の長、安倍貞任の終焉の地である。1052年、陸奥守として下向した頼義は、陸奥の豪族安倍氏と友好的に振舞っていたが、1056年の陸奥守の任期が切れる直前、些細な事件(阿久利川事件)をきっかけに対立するようになり前九年の役が発生した。これは、京の中央政界での進出が遅れていた源氏の棟梁頼義が東国に活路を求め、奥州に地盤を築こうとした謀略によるとも言われる。その後長い戦いの後、1062年に豪族の清原氏を味方につけることに成功した頼義は、厨川柵で最後の戦いに挑んだ安倍貞任とその一族を攻め滅ぼした。時代は下って1189年、源頼朝は平泉の奥州藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光をこの地の地頭とし、以後1592年の廃城までの400年間に渡って岩手郡を治める拠点であった。現在残る遺構は、この工藤氏時代のものとされる。

 安倍館は、北上川右岸の断崖上に築かれており、安倍館町というそのものずばりの名前の町にある。盛岡中心街に近い住宅地の真ん中だというのに、大きな空堀跡が何本も残っているのでかなりの驚きである。川沿いに北から順に6つの曲輪を直線的に並べ、西側周囲に帯曲輪を設けた縄張で、帯曲輪は現在市街化で湮滅しているが、城の主要部は宅地化されつつも本丸を中心に良好に空堀が残っている。特に本丸は三方を囲む空堀がほぼ完存し、見事なものである。その他にも北館・中館の空堀が残っている。堀はいずれも幅10m程もあり、本丸西側はだいぶ埋まっているが、東の崖面に近づくにつれてその深さを増している。単純な縄張であるので面白みにはやや欠けるが、街中でこれほどの遺構が残っているのは奇跡に近いだろう。それだけ盛岡の人は、よそ者に滅ぼされた地元の安倍氏に愛着を持ち、破壊するに忍びなかったのだろう。それは、曲輪内に民家がひしめいているにも関わらず、堀跡にはほとんど手を付けていない事や、その地名からも推し量ることができるのである。
空堀→DSC02939.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.720425/141.126530/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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fuzzy

奥州蝦夷の地ですね、平泉には行ったのですがそれ以外はまったく廻れず心残りなのです。奥州蝦夷VS源氏(朝廷)の歴史は興味大で小説等を読み漁りましたが、やはり本を片手に所縁の各地をいずれ廻りたいと思っています。
by fuzzy (2010-01-27 12:34) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
奥州蝦夷の地には、戦国時代などとはまた違うロマンがありますね。
実際の戦闘は、そんな生易しいものではなかったようですが。
特に源義家などは一族殲滅に近いこともやってますね。
by アテンザ23Z (2010-01-27 19:55) 

fuzzy

黄海の戦いで壊滅的な惨敗を頼義・義家親子は喫していますね、その時代の小説では高橋克彦氏の「炎立つ」は面白いですよ。
by fuzzy (2010-01-27 20:13) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
「炎立つ」は昔大河ドラマでやってましたね。
当時はあまり興味がなくてまともには見てませんでしたが、
今思えば、もっときちんと見ておけばよかったと思います。
by アテンザ23Z (2010-01-28 00:30) 

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