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志波城(岩手県盛岡市) [古城めぐり(岩手)]

DSC02993.JPG←志波城の広大な外郭
 志波城は、古代の城柵である。京の朝廷より派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を征討し、803年に北上川と雫石川合流地近くに志波城を造営した。志波城には政庁が置かれ、陸奥国最北端の城柵として蝦夷の統治に当たり、朝廷は北上川以北にまで支配領域を延ばすこととなった。しかし雫石川に近い志波城は度々水害に遭い、結局新たに徳丹城が築かれて政庁機能を移し、志波城は約10年で廃城となった。

 志波城は、外郭に840m四方の築地塀とその外側に930m四方の二重大溝をめぐらした真四角の広大な城柵で、各辺の中央には門が構えられ、60m毎に櫓を建てて守りを固くしていた。また城の中央には150m四方の政庁が置かれていた。この城は基本的に古代律令国家の政庁跡であるので、純粋に戦うための城ではない。しかし復元された遺構を見ると、広大な平野部に高い築地塀をめぐらして要所には櫓台を築き、周囲には大溝を二重に設けていて、そこそこの防御力は持っていたと思われる。塀は高く、復元された南門もかなり規模が大きい。しかしこの城を見る限り、あまりに広すぎ、守備兵が足りなかったろうと想像される。守備兵は、中央から派遣された出張組も多少はいただろうが、ほとんどは現地徴集だったろう。最果ての地で、人口も現代とは比べ物にならないぐらい少なかったろうから、そこで大量の兵を徴収したらものすごい反感を現地民から買ったであろうことは想像に難くない。蝦夷の側からすれば、それはいわれの無い支配であり、税と共に大量の壮健な男子を取られることは暴政に他ならなかったであろう。そんな中で、少数の現地徴収兵に守らせた広大な城では、攻められたら守りきれないだろうに。律令国家崩壊の一因が垣間見えた気がした。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.686301/141.106639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:古代城柵
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fuzzy

私の好きな阿弖流爲を中心とした蝦夷が田村麻呂に制圧された時代の話ですね、「炎立つ」に繋がるこの時期を大河ドラマでやって欲しいのです、戦国や幕末はもういいでしょう、高橋氏の「火怨」最高です。
by fuzzy (2010-01-28 15:13) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
この時代の蝦夷は、歴史的資料が少なく、なぞの時代ですね。
だからこそ、より歴史ロマンがかき立てられそうです。
by アテンザ23Z (2010-01-28 19:43) 

ノリパ

陸奥の国ですか。北の果て、蝦夷には何があるのか想像も
つかないです。今ちょうど小説“密命”で清之助が歩いて
いる地です。興味が尽きません。
by ノリパ (2010-01-31 17:38) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
古代の陸奥の国は、本当に想像もつかないですね。
朝廷側の簡単な記載しか残っていないので、
謎だらけですね。
by アテンザ23Z (2010-01-31 21:56) 

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