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徳丹城(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSC03024.JPG←外郭西側の柵列・櫓台跡
 徳丹城は、古代律令国家の城柵跡である。812年、時の征夷将軍文室綿麻呂によって築かれた、律令制最後の城柵と言われている。当初、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討後に志波城を築いて最北の地の統治拠点としたが、雫石川の水害で被害を受けた為、これを解体して新たに徳丹城を築いた。この造営工事には2千人もの鎮兵が動員されたが、外郭の大きさは約350m四方となり、志波城の840mと比べると、大幅に縮小されている。また外郭の塀も、築地塀から北を除く3辺を柵列とし、大幅に簡略化されている。9世紀の中頃に至って、徳丹城は衰退したと考えられている。
 徳丹城は、志波城と同じ古代の政庁跡であり、その構造も真四角な外郭の中心に四角い内郭を設けており、基本構造は軌を一にしている。しかし前述の通りその規模は大幅に縮小・簡略化されており、このことは大規模な蝦夷の民の動員がもはや困難になっていて、朝廷による律令国家体制が大きく揺らいでいたことを物語っているのだろう。城跡は内郭北側に徳田小学校が建ち、内郭西を国道4号線が南北に縦貫している。その為制約が多く、志波城の様な大規模な復元はされていないが、西側外郭の跡や内郭の建物跡の遺構が公園化されて見える様になっている。また発掘作業も続いているようだ。主要幹線国道沿いにあるので、通り掛かったついでに寄るのが良いだろう。丁度、城跡を見下ろせる場所に歩道橋が建っているのもありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.607325/141.172085/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:古代城柵
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fuzzy

城の縮小は、ほとんどの蝦夷は制圧され俘囚として朝廷に帰属していますので蝦夷の脅威が薄れたとも思えます。安倍氏が俘囚長として蝦夷を束ね前9年の役まで大規模な戦闘は無かったのもその現れかと思います
by fuzzy (2010-01-29 14:01) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
なるほど!そういう見方もありますか。
あまりこの時代には詳しく無いので、
私の見当ハズレだったらすみません。
by アテンザ23Z (2010-01-29 18:05) 

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