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高水寺城(岩手県紫波町) [古城めぐり(岩手)]

DSC03072.JPG←広大な主郭
 高水寺城は、北上川右岸の独立丘陵に築かれた平山城で、高水寺斯波氏の歴代の居城である。斯波氏は、足利一門中でも特別の家格を誇った名門で、鎌倉時代には宗家と同様に足利の姓を称していたほどであった。斯波の姓を称したのは室町時代に入ってからで、これは足利将軍家から足利の姓を使うことを禁止された為だと考えられるようだ。斯波氏は足利泰氏の長男家氏を祖とし、家氏は陸奥国斯波郡の所領を譲られた。家氏の母は北条氏傍流の名越氏の出で、北条得宗家の出の母を持つ弟頼氏が足利氏の家督を継いだ為、庶流に甘んじることとなった。しかし家氏が源氏にとって聖地とも言うべき斯波郡(陣ヶ岡の項参照)を譲られたことで、特別の家格として遇される根拠になったとも言われる。

 南北朝時代には斯波高経が、宗家の足利尊氏・直義に従って越前守護となり、越前金ヶ埼城の戦い、藤島城黒丸城等における足羽七城の戦いで新田義貞討伐に功績を挙げた。またこれより先、高経の長子家長は建武の新政期に奥州総大将に任じられて高水寺城に拠り、多賀城に拠る鎮守府大将軍、北畠顕家牽制の任に当たった。尊氏が幕府を開くと、家長は関東管領に任じられて鎌倉の押さえの大役を担ったが、1337年8月に北畠顕家率いる奥州軍が二度目の西上戦に立ち上がると、家長は鎌倉東方の要害杉本城に籠って戦い、12月24日に奥州軍に攻められて自刃した。高水寺斯波氏はこの家長の系統である。高水寺斯波氏は、足利将軍家につながる名門として尊崇され、「斯波御所」と称されるようになった。そして一時は南岩手から雫石方面へも勢力を伸張したが、三戸南部氏との抗争で次第に圧迫され、1588年8月南部信直に高水寺城を攻め落とされて没落した。高水寺城を占領した信直は、城名を郡山城と改称して城代を配し、一時期は南部利直の居城となったが、1667年に城代制が廃されて城も破却された。

 高水寺城は、現在城山公園として整備されている。公園化に伴って一部に改変が見られるものの、概ねの遺構は良好に残っている。さすがは足利一門の有力庶家の城で、一つ一つの曲輪が広く城が大きい。中世城郭としては、並みの城の2倍以上の規模がある。主郭を中心にして周囲に多数の主要な曲輪や腰曲輪を配置し、全山を要塞化している。天童城成沢城などと同じく、曲輪を多数連ねただけで堀切などは少なく、防御構造としては至ってシンプルな印象である。それでも南西中腹には横堀が構えられ、要所には防御力を増す努力が払われている。

 それにしてもこの城の広大さ。名族だけあって多数の家臣団を従えていたのだろう。斯波家長が多数の家臣を引き連れて下向した情景が目に浮かぶようだ。
南西中腹の横堀→DSC03193.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.565355/141.173029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

斯波氏は室町幕府で重責を担っていたのですが、何故か戦国期に意外と簡単に没落してしまいました。奥州勢は蝦夷の頃から本当に高い戦闘能力を有していますね差別からくるハングリー精神なのでしょうか、明治以降の戦争でも東北の部隊は最前線に置かれました、地域差別がその時代まで続いていたのですから酷い話です。
by fuzzy (2010-02-01 12:17) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
奥州は寒冷で、昔は食料もかなり少なかったでしょうから、
飢えにも強く忍耐力があり、兵としてはよかったのかもしれません。
モンゴル帝国を築いた騎馬軍団もそうだったようです。
by アテンザ23Z (2010-02-02 00:17) 

ノリパ

北の大地はすごい人たちがいたんですね。そういえば、もののけ姫にでてくる
アシタカも北の出身ですね。忍耐強く強いですからね。
by ノリパ (2010-02-07 17:11) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
やっぱり南国より北国の方が、人が強いイメージがありますね。
by アテンザ23Z (2010-02-07 23:49) 

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