SSブログ

倶利伽羅峠古戦場(石川県津幡町~富山県小矢部市) [その他の史跡巡り]

IMG_4451.JPG←猿ヶ馬場の平家本陣跡
(2003年10月・2004年4月訪問)
 倶利伽羅峠古戦場は、挙兵した木曽義仲が平維盛率いる平家の大軍勢に大勝した古戦場である。砺波山源平古戦場とも呼ばれる。1183年、信州木曽山中より兵を挙げた義仲は、京都を目指して北陸道を進軍、10万の兵を率いる維盛と加賀・越中の国境砺波山の倶利伽羅峠付近で対戦した。倶利伽羅峠は、古来より北陸道が加賀から越中に抜ける難所であり要衝であった。埴生護国八幡宮に戦勝祈願をした義仲は、5月11日夜半に4万の軍勢を以って一斉に奇襲攻撃を仕掛けて、長途の行軍にまどろんでいた平家方の軍陣を一気に崩壊させた。この際、火の付いた松明を角につけて猛り狂った牛の大群を敵軍に突っ込ませるという「火牛の計」を用いたとされる。大混乱に陥った平家方の将兵は、軍馬もろとも地獄谷に馳せ込み落ちて、相重なって谷を埋めること1万8千余騎に及んだと源平盛衰記に記されている。

 この古戦場は、倶利伽羅不動寺の周辺一帯の源平ラインと呼ばれる車道沿いに、史跡が広く散在している。要所に解説板や石碑が立ち、古戦場跡には角に松明を付けた牛の像が置かれている。綺麗に整備され、なかなか楽しい古戦場である。こういう古戦場は全国的に珍しい。

 ちなみに、義仲が用いたとされる火牛の計は、史記・田単列伝に記される、斉の田単が即墨で燕軍を打ち破った戦術に酷似しており(但し田単は、角ではなく牛の尾に葦を束ねて火をつけた)、それに仮託した作り話か、それとも義仲が本当に史記を学んでいて、その戦術を用いたものであろう。
 尚、双方の兵数については軍記物で誇張されていることを付記しておく。(実数はその1/10程度か)

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.661396/136.818452/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<猿ヶ馬場 平家本陣跡>
 猿ヶ馬場は平家の本陣があった場所で、平家軍の総大将平維盛が木曽義仲軍討伐に備えて諸将を集めて軍議を開いた。現在、軍議を開いたというテーブル状の平たい大石が置かれているが、当時のものかどうかはわからない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.661689/136.819246/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<為盛塚>
 為盛は、池の大納言平頼盛の子で、砺波山の源平合戦に平維盛の部将として出陣し、5月11日に源氏の夜襲に敗れて一旦加賀に逃れた。翌12日未明、手兵50騎を率いて源氏に逆襲したが、義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。この勇敢な武将為盛を弔う為に鎌倉時代に築かれたと言う。
IMG_4461.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.661396/136.817787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<源氏ヶ峰>
 平家陣地だったこの山を源氏が占領したので、この名が付けられたという山である。城跡でもあったらしい。
IMG_4441.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.654683/136.823709/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<塔の橋>
 平家方の最前線だったところで、軍旗の赤旗を山々に立て並べたと言う。
IMG_4435.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.659348/136.826198/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<峠茶屋>
 これは古戦場とは無関係であるが、旧北陸道の倶利伽羅峠に置かれた江戸時代の茶屋跡で、平坦地が残る。
IMG_4426.JPG


<矢立>
 源氏の最前線で、平家方より多数の矢が放たれて、林の如く矢が立ったと伝わる場所。
IMG_4425.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.658298/136.829910/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<葵塚>
 葵御前は木曽義仲の愛妾であった。巴御前と共に男勝りの大力無双で、義仲の部将となって従軍し、倶利伽羅の戦いで討ち死にした。その屍を埋めて弔った場所とされる。
IMG_4419.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656336/136.837442/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<巴塚>
 巴御前は義仲の部将今井兼平の妹で、木曽義仲の愛妾でもあった。葵御前と同様義仲の部将となって従軍した。義仲が戦死した後、和田義盛と再婚し、剛勇を誇った朝比奈三郎義秀を生んだが、未亡人となり、後生を福光城主の石黒氏に託した。尼となり兼生と称し、1247年に91歳で没し、石黒氏がこの地に巴葵寺を建立したと言う。尚、石黒氏と巴御前は、倶利伽羅合戦で共に平家を攻めた親しい間柄であったと言う。
IMG_4417.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.656301/136.838450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


IMG_4475.JPG←旧北陸街道跡


タグ:古戦場
nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 4

fuzzy

さすがに歴史に残る倶利伽羅峠ですね、源平の戦いを忍ばせてくれます。
都でこの世の春を謳歌していた平家には義仲の用いた戦術は強烈なダメージを与えたでしょう(本当の話なら)、平家にも優れた武将は居たのですが、
惟盛では義仲に対抗しうる能力は無かったのではと思います。
by fuzzy (2010-02-02 18:32) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
やはり驕れる平家は都で公家風に振舞い、
平和ボケしてしまったのでしょうか?
一気に転落への道をひた走ることになってしまいました。
by アテンザ23Z (2010-02-02 20:20) 

ノリパ

武門はやはり源氏なんですね。
アテンザ23Zさんとfuzzyさんのコメントはいつも勉強になりますね。ありがとうございます。
by ノリパ (2010-02-07 17:15) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
ただ平家も傍流が各地に残りました。
坂東八平氏なんかは名門となって戦国期まで活躍しましたね。
by アテンザ23Z (2010-02-07 23:56) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント