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杉本城(神奈川県鎌倉市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC03542-1.JPG←上に曲輪跡らしい平坦地が見える
 杉本城は、鎌倉の東方を押さえる山城である。朝比奈切通しを侵入してきた敵を防ぐ為に築かれた要害らしい。平安時代末期に三浦義明の長男である杉本義宗によって築かれたと言う。しかしこの城が歴史上名高いのは、南北朝初期の戦いである。1336年11月、足利尊氏が京に幕府を開くと、足利一門でも最高の家格を持つ斯波高経の長子家長は関東執事に任じられて、鎌倉府の長で尊氏の嫡男義詮の補佐役として、鎌倉の押さえの大役を担った。1337年8月に鎮守府大将軍北畠顕家率いる奥州軍が霊山を発し二度目の西上戦に立ち上がり、小山朝郷を降し次いで鎌倉を攻めると、家長は鎌倉東方の要害杉本城に籠って戦い、12月24日に奥州軍に攻められて自刃した。この家長の後裔は奥州高水寺城に拠って高水寺斯波氏となり、戦国期を通じて名門として周辺諸武家より尊崇された。以後の杉本城の歴史ははっきりしないが、戦国期にも使われたとの説がある。
 杉本城は、杉本寺の建てられた大蔵山に築かれている。杉本寺の背後の山が大蔵山で、大蔵山全体を城域としていたらしい。「らしい」と言うのは、大蔵山中腹には民家が立ち、山は個人の所有地である為、入ることができなかった為である。しかし杉本寺や民家の建っている場所も、元は腰曲輪の一つであったのだろう。杉本寺から民家へ至る道の途中にも、明らかに削平されている節のある地形が遠目に眺められる。日本城郭大系によれば、杉本寺背後の頂に主郭を置き、周囲にいくつもの腰曲輪・段曲輪を設けた縄張であったようで、杉本寺から東北東に200m以上も離れた熊野神社付近まで城域であったようである。
 聞くところでは発掘調査が続けられているようなので、いつの日かこの城の全貌が公開される日が来ることを期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆(見れないので・・・)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323126/139.567180/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

鎌倉自体が要害な場所ゆえ、城郭都市のような存在と思っていましたので、玉縄城くらいしか頭に有りませんでした。確かに各切り通しに防備の城が有るはずですね。
by fuzzy (2010-02-13 14:34) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
日本城郭大系などを見ると、鎌倉全域を城と見立てて、
「鎌倉城」と称する見解があったようです。
そのぐらい要害性の高い地勢でしたが、
更に防御力を増す意味で築かれた城かもしれません。
by アテンザ23Z (2010-02-14 23:14) 

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