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柏木城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC04105.JPG←内枡形虎口の石垣
 柏木城は、葦名氏が対伊達戦用に築いた巨大城塞である。伊達政宗の会津侵攻を阻止する為、1584年に米沢口の押さえとして、旧米沢街道を押さえる大塩の地に柏木城を築き、三瓶大蔵を城番にして守らせた。1589年6月、政宗が摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼすと、ここを守備していた三瓶大蔵、穴沢俊次らは、城に火を付けて退却し、伊達勢がこの城に入った時には、空であったと言われている。

 柏木城は、おそらく葦名氏が築いた中でも最も高度な築城技術を結集した城である。城の中枢部は要所に石垣を取り入れ、曲輪間を巧みに空堀で分断するほか、横堀、竪堀、土塁、内枡形に石垣虎口、馬出しの設置等、様々な築城技術を駆使した優れた縄張となっている。北斜面の腰曲輪群は、かなり薮化していて遺構の確認が容易ではないが、中枢部は薮がある程度取り払われており、高度な縄張を堪能することができる。主郭内部は、石塁で囲まれた塀が建てられていた区画や門の跡があり、土塁上などにも石積みが今でも散見される。往時はほぼ全周を石垣で武装していたのだろう。ただあちこちに築かれた石垣は、現在では崩落しているものが多く(破却されたらしい)、思ったほどの規模ではないのが残念である。中枢部の周辺にも城域は大きく広がり、中曲輪群・東曲輪群などを含めると、その範囲は東西約1kmにも及ぶ。ただ中枢部以外は耕作地に転用された場所が多く、どこまでが遺構なのか非常にわかり辛い。

 それにしてもなんという広大な城だろう。政宗の脅威が、葦名氏をしてこの巨大要塞を築かせしめたのだ。しかし政宗は、不利な城攻めをすることなく、決戦を野戦に持ち込んで勝利をもぎ取った。まさに戦略勝ちである。その為、せっかく築いた巨大要塞の柏木城も不発に終わるという結末を迎えた。結局、戦国大名の没落というのは、信玄の言葉ではないが、城によらず人心の離反によって引き起こされるものなのだろう。(葦名氏は家臣団の内部分裂が大きく響き、摺上原でも敗北を喫した。)それは、信濃小笠原氏の没落や甲斐武田氏の終焉を見ても明らかだ。

 なお柏木城は、一般的には山城の分類に入れられているようだが、山の峻険さよりもなだらかな丘陵状の地形を利用して広い曲輪を連結した縄張で、比高も100mに満たないので、ここでは平山城に分類しておく。
主郭と三ノ郭間の大空堀→DSC04163.JPG
DSC04171.JPG←腰曲輪内の石列
主郭土塁上の石列→DSC04180.JPG
DSC04239.JPG←北曲輪群の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.665757/139.976981/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

堅牢な城を抜くのは、リスキーな攻撃ですから野戦に引きずり出した政宗の器量が非凡な武将で有ることを示していますね。野戦の名手と謂えば家康の名が出てきますが、政宗も引けを取らないですね。
by fuzzy (2010-02-22 13:38) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
若いながらも巧みな駆け引きは、さすがと言うほかはありません。
本当にもう20年早く政宗が生まれていたら、
歴史はどうなっていたか・・・。
by アテンザ23Z (2010-02-22 19:58) 

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