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布袋ヶ岡城 その2(栃木県都賀町) [古城めぐり(栃木)]

DSC04997.JPG←北東尾根の四角い土壇
 布袋ヶ岡城に訪れるのは、3年振り2度目になる。

 布袋ヶ岡城は、平将門の乱の際に藤原秀郷が築いた砦を、永正年間に皆川俊宗が本格的な山城として再興したものと伝わっている。皆川氏の支城の中でも宇都宮氏に対する最北の前線基地で、柏倉兵部左衛門を城代にして守らせた。1588年、佐竹氏の後援を受けた宇都宮国綱は皆川領に大軍を率いて侵攻した。最初、宇都宮・佐竹勢が西方城等に陣を取ると、皆川広照は諏訪山城まで進出して迎え撃ったが城を陥とされ、布袋ヶ岡城に落ち延びてこれに拠って防戦した。両軍は清瀬川を挟んで激戦を展開し、宇都宮・佐竹勢は皆川方の第二の防衛拠点の神楽ヶ岡城を攻略し、次いで皆川勢の必死の防戦にも関わらず最後の防衛拠点の布袋ヶ岡城も陥とした。皆川広照は辛うじて布袋ヶ岡城を脱出して危難を逃れた。その後、頽勢を盛り返した広照は粟野城を攻略し、宇都宮氏との間にしばらく小康状態が続いて1590年の小田原の役を迎えた。

 今回、布袋ヶ岡城を再訪したのは、前回未攻略であった北東側の尾根筋の遺構の有無を確認するためであった。結果として遺構はゼロではないが、あまりはっきりせず思ったほどの規模ではなかったと言うのが正直なところである。まず尾根先端から100m程西に、尾根を東西に分断する堀状の溝がある。深さは1.5m程でそれほど大きなものではないが、堀に沿って土塁らしい高まりや虎口状の平場らしいものもある。また堀の東側の尾根には腰曲輪らしい平場も付随しているので、遺構と見て間違いないだろう。但し、尾根上の平場の削平は甘い上に、防御構造がかなり貧弱なので、若干の疑問が残る。ここから尾根を西に登っていくが、途中は全くの自然地形で城塞の体を成していない。しかし、もう少し登って尾根頂上の手前には物見又は指揮所らしい四角い土壇がある。この土壇から南と東に堀状の溝が下っていて、横堀・竪堀と思われる。南下方には何段かの腰曲輪らしい平場があるが、山道が付いているので後世の改変の可能性もある。土壇の上には北東尾根の頂部があり、祠が祀られている。おそらく北の物見台であったのだろう。ここから南に城の中心に向かって進むと、尾根の鞍部に出た後の登りの途中に小規模な段曲輪が数段見受けられる。その内の一つには、小規模ながら横堀とそれから変化した竪堀が付随している。以上が北東尾根の遺構である。
北東尾根の空堀→DSC04985.JPG

 その後は、また布袋ヶ岡城中枢部を見て回ったが、久しぶりに見る布袋ヶ岡城は、やはり中々に規模が大きい。多くの曲輪が構築され、竪堀・横堀・虎口など遺構が明確である。本城の皆川城を守る最終防衛陣地として申し分の無い城である。
DSC05032.JPG←本城部分の中央の竪堀
本城の横堀と土塁→DSC05063.JPG

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