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小机城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09331.JPG←二ノ丸の空堀
 小机城は、小田原北条氏の軍団の一つ、小机衆の本城である。築城者と築城年代は定かではないが、歴史上にこの城が現れるのは1476年の長尾景春の乱である。山内上杉氏の家宰長尾景信が死ぬと、関東管領上杉顕定はその嫡子景春を差し置いて、景信の弟忠景を家宰とした為、これに不満を持った景春は関東諸豪を率いて鉢形城から大規模な反乱を起こした。扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、関東各地を転戦してこれを討ち平らげた。その際、景春方の武蔵の豪族豊島泰経を石神井城平塚城と敗走させ、最後に泰経を攻め落としたのが小机城である。その後、伊豆から勃興した小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばすと小机城もその支城となり、北条氏綱は伊豆の土豪笠原越前守信為を城代として、小机衆を組織させた。小机城は、江戸城玉縄城榎下城を結ぶ要地にあった為、軍事・経済両面で重要な役割を果たした。後に城主は氏康の子氏秀(後に上杉謙信の養子となった景虎)や氏堯が務めたが、笠原氏は小机衆の中心的存在であり続けた。1590年に北条氏が滅びると小机城は廃城となったが、笠原氏は関東に入部した徳川家康に仕えて旗本となった。

 小机城は、なんと第3京浜という車がバンバン通る交通量の激しい自動車道の真横にある。第3京浜は昔何度も通っているのに、こんな都会の真ん中にこんなに大きな城跡があるとは知らなかった。小机城は、本丸西側を第3京浜が貫通して破壊されているが、それより東側はほぼ遺構が完存する。本丸と二ノ丸の間には馬出しと櫓台を兼ねたと思われる縦長の曲輪があり、その曲輪も含めて本丸・二ノ丸の周囲には横矢の掛かった見事な空堀が囲繞する。その更に外周は土塁が取り巻いて防御を固めており、この防御プランは滝山城滝の城松山城などの北条氏の主要な城郭と共通するものである。曲輪内部の横矢の掛かる要所には櫓台が築かれ、堀底への邀撃をより確実なものとしている。また、空堀外周の土塁の外側にもいくつかの腰曲輪が構築されているのがわかる。一方、第3京浜の西側には出丸があったとされるが現在は畑となっている。その南側は住宅地になっているが、ここも城域であったのだろう。それは国土変遷アーカイブの1940年代の航空写真を見ると、明確にわかる。この写真を見ると、城域は更にJR横浜線の南側の丘陵部にも広がっていたことがわかる。かなり大きな城だったようである。

 これ程の遺構を持つ城であるが、堀の周囲や腰曲輪などは竹林保護の為に立入り禁止となっており、外周の遺構には満足に立入ることができないのが残念である。また、訪城の翌週に「小机城址祭り」が開催されるということで、本丸にテント等が設営されている最中であった。城址祭りは非常に結構なことであるけれども、遺構を傷つけるのはどうかと思う。ここはよく考えてもらいたいと思った。
馬出し周囲の空堀と土塁→DSC09289.JPG
DSC09259.JPG←本丸南側の竪堀
二ノ丸の櫓台→DSC09299.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.512422,139.593755&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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