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勝瑞城(徳島県藍住町) [古城めぐり(徳島)]

DSC00443.JPG←主郭に建つ見性寺と水堀
 勝瑞城は、室町時代に阿波守護であった細川氏、及びその家臣だったが下克上で阿波を支配した三好氏の本拠である。現在は「勝瑞城館跡」という名称で国の史跡に指定されているが、これは勝瑞城の周囲に勝瑞館と呼ばれる守護町が築かれていて、その総合名称だからである。

 1362年に室町幕府に反乱を起こした従兄弟の細川清氏を、幕命によって討ち滅ぼした細川頼之は、領国である阿波・讃岐を三分し、東讃岐を自分の領地とし、西讃岐を次弟頼有に任せ、阿波を弟詮春に与えた。そして阿波の本拠を秋月城から小笠原氏の拠っていた井隈庄に移し、戦勝を記念して地名を勝瑞と改めた。こうして勝瑞城を中心にして守護町となった勝瑞は、以後220年間、阿波の政治・文化の中心となった。京都の管領屋形に対して阿波屋形・下屋形とも呼ばれ、応仁の乱では細川勝元率いる東軍の後方拠点となった。1553年、阿波守護細川氏の家臣三好義賢は主君細川持隆を殺害して、勝瑞城に拠って実権を握った。1582年、土佐の長宗我部元親は讃岐に侵攻して十河存保(三好長治の弟)の守る勝瑞城を攻めた。存保は中富川の戦いで大敗し、1ヶ月ほど勝瑞城に籠もったが讃岐虎丸城に引き、勝瑞城は長宗我部軍によって破却された。後に阿波に入部した蜂須賀家政が徳島城築城に際して、石塁や残った遺構の多くを持ち去ったと言う。

 勝瑞城は現在主郭だけが残り、内部は見性寺とその墓地が立つほか、勝瑞義冢碑という石碑が建立されている。墓地には三好氏歴代の墓も建っている。主郭には土塁の一部が残存するほか、周囲にはほぼ全周にわたって水堀が残っている。しかしそれ以外の遺構は無く、かつての守護町は宅地に変貌してしまっている。勝瑞城の南には勝瑞館があり発掘調査が続いているが、ほとんど埋め戻されて整備工事が行われていて、見る限りではただの広い空き地である。また勝瑞城主郭の西600m程の所には細川殿と呼ばれる守護細川氏の屋敷があったとされるが、現在は宅地になっている。何年後かに勝瑞館跡が史跡公園として整備された時には、また改めて訪れてみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.132020/134.523050/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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