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撫養城(徳島県鳴門市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00481.JPG←本丸に残る石垣
 撫養城は、岡崎城とも言い、蜂須賀家政の築いた阿波九城の一つである。築城時期は定かではないが、古くは鎌倉時代に阿波守護であった小笠原氏の居城であったとも言われている。戦国時代に権力闘争を重ねた足利将軍所縁の地でもあり、1523年には管領細川高国と対立して京を出奔した10代将軍足利義稙(義材)がこの地で没している。また13代将軍足利義輝を弑逆した三好三人衆・松永久秀に擁立された14代将軍足利義栄も、足利義昭(義輝の弟)を戴いた織田信長の上洛によって、一度も京に入ることなく阿波に逃れてこの地で客死したと言う。この頃の撫養城は、三好氏の家臣で阿波小笠原氏の後裔撫養氏の居城であったようである。戦国末期の1582年、土佐の長宗我部元親が四国全土の併呑を企図して阿波に侵攻し、三好氏が各地で敗北すると、撫養城も長宗我部氏が支配し、その家臣真下飛騨守が城を守った。しかしそれもつかの間、柴田勝家を滅ぼして天下の権を握った豊臣秀吉が1585年に長宗我部氏を伐って四国を平定すると、征伐戦で功のあった蜂須賀家政が阿波の新領主として入国した。家政は徳島城を築くと共に、国内9ヶ所の要所に支城を置き、阿波北部の要衝撫養城は益田内膳正忠に守らせた。後に元和の一国一城令により廃城となった。

 撫養城は鳴門市中心部の東方、標高62mの妙見山山上に築かれている。現在の城域は公園化による改変が激しく、往時の遺構はわずかである。妙見神社の境内が本丸とされ、本殿背後にはわずかではあるが見事な石垣が残っている。本丸の南は一段高くなった曲輪で矢倉跡とされており、現在は模擬天守である鳥居記念博物館が建っている。本丸の東北方には広い平坦地が広がり千畳敷と呼ばれているが、ここも改変が激しく、かつてどのような形状の曲輪であったのかは、想像するほかはない。千畳敷の一段下は駐車場になっていて、もしかしたらここも曲輪であった可能性があるが、これも今ではわからない。立派な模擬天守が建っているので素人受けはすると思われるが、城郭遺構としては残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.177796/134.618601/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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