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一宮城(徳島県徳島市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00562.JPG←本丸石垣
 一宮城は、阿波小笠原氏の一族一宮氏の築いた山城である。小笠原(一宮)長宗が南北朝期に築城した。宗家の阿波守護小笠原義盛は北朝方の細川氏に属したが、一宮氏は長く南朝方として活動した。おそらくは当時一般化していた一族内部の対立が背景にあったものと考えられる。しかし、南朝方の脇屋義助が伊予国府で病死すると、細川頼春はこの機に乗じて伊予の南朝勢力を攻め、転じて阿波の南朝勢力も攻撃し、1350年に一宮城付近で戦いが行われた。1362年に、室町幕府に反旗を翻して南朝方に付いた細川清氏が従兄弟の細川頼之に滅ぼされ、阿波の南朝勢力が衰退すると、長宗はやむなく北朝方に降った。

 時代は下って1577年、勝瑞城主三好長治が細川真之と争うと、長治と不和であった一宮成助は兵を挙げて長治を今切城に包囲し、城を脱出した長治を追い詰めて自殺させた。しかし三好方の逆襲で孤立すると、成助は土佐の長宗我部元親と誼を通じ、同年に元親の阿波侵攻が開始されるとこれに組して三好勢と交戦した。1582年に織田信長の四国征討軍の先鋒となった三好康長は十河存保と共に一宮城・夷山城を収めたが、本能寺の変で信長が横死すると、康長は急ぎ京に戻り、元親はこの機に乗じて大軍で阿波に侵攻し、中富川の戦いで存保を破り阿波を平定した。その後元親は、成助が一時、三好康長に通じたことを耳にしたので、夷山城に誘殺した。元親は、一宮の南城を江村親俊に、北城を谷忠澄に守らせたが、1585年の豊臣秀吉の四国征伐の時、豊臣秀長の四万余の攻撃を一万余の兵でよく守り、七月下旬に元親の降伏によって開城した。四国征伐後、蜂須賀家政は秀吉から阿波を与えられ一宮城に入ったが、間もなく徳島城に移り、一宮城を益田長行に守備させて阿波九城の一つとした。その後、元和の一国一城令によって一宮城は廃城となった。

 一宮城は、広大な城域を持った山城である。いくつもの曲輪を有し、曲輪間には堀切・竪堀などの防御構造が随所に見られ、その縄張りは中世山城そのものである。一方で、蜂須賀氏による改修で築かれたと思われる本丸の石垣は、荒々しい石をそのまま積み上げた豪壮なもので、虎口や折れを持った見事なものである。主郭以外の曲輪は、主なものでも明神丸・才蔵丸・小倉丸・椎の丸・水の手丸等があり、さらにそれぞれに腰曲輪などを付随させている。また本丸と小倉丸の間の谷間には、畑跡とされる数段の平坦地が広がっている。

 登山道が整備され、要所に多くの解説板が設置されているが、主要部以外は整備が追いついておらず、薮が非常に多くて遺構の確認が容易ではない。また危険防止のために有刺鉄線が張られている部分があるが、山城めぐりをしている者には、その方がより危険性を増している様に思う。夏場にはマムシが出る可能性も高い地域なので、行くなら冬場の方が良い。いずれにしても実戦バリバリの中世城郭の雰囲気を濃厚に漂わせた、類稀な近世山城である。
才蔵丸の堀切と虎口→DSC00527.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.033990/134.463118/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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江州石亭

徳島のお話が続いて楽しく拝見しました。
鎌倉中期に小笠原長清との縁戚を頼って庇護された上総千葉の生き残り千葉常重が美馬安楽寺に入り、その系譜がそのまま現在にまで至って続いています。
江州の出は下総千葉の系譜で、宝治合戦時に敵対した家同しとなりますが、4年前にお目にかかりました。
by 江州石亭 (2010-07-14 10:13) 

アテンザ23Z

>江州石亭さん
阿波に入った千葉氏の系譜は二流あったのですね。鎌倉中期の乱で敵対した家同士のご子孫が、はるか現代になって会う機会に恵まれるとは、歴史の不思議を感じます。
by アテンザ23Z (2010-07-15 20:41) 

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