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徳島城(徳島県徳島市) [古城めぐり(徳島)]

DSC00680.JPG←本丸の石垣
 徳島城は、別名を渭山城、渭津城とも言い、徳島藩主阿波蜂須賀家の歴代の居城である。元は、1385年に細川頼之が小城を築いて渭津と名付け、家臣の三島外記に守らせたのが始まりと伝えられている。戦国後期に入ると、細川氏は家臣の森飛騨守高次を渭山城に入れていた。1582年、土佐の長宗我部元親は、2万余の兵を率いて阿波に侵攻して勝瑞城主十河存保を駆逐し、渭山城も占拠して家臣の吉田孫左衛門康俊を城番として配置し、自らは土佐に帰った。1585年に豊臣秀吉の四国征伐によって阿波が平定されると、その功によって蜂須賀小六正勝の嫡男家政を阿波に封じた。家政は当初一宮城に入ったが、秀吉の命で渭山城を修築して移ることになった。この修築に当たって、秀吉は小早川隆景・長宗我部元親・比叡山僧徒に援助を命じている。土佐長宗我部氏の動きを封じる為に、阿波の掌握が重要と考えた為であろう。以後、蜂須賀氏の居城となり、幕末まで存続した。

 徳島城は近世になってから築かれた平山城であり、水道配水池が城内に作られるなど市街化の中でかなり改変されているようだし、現存建築物もなく壊滅状態なのでほとんど期待せずに訪れたが、予想外に素晴らしい城だったので驚いた。山上の要害部は、東二ノ丸・本丸・西二ノ丸・西三ノ丸と並べた連郭式の縄張りで、ほぼ全ての曲輪を石垣で防御を固め、本丸には3ヶ所の虎口を設けている。本丸は最も広い面積を有し、かつては御座敷・御留守番所・櫓などが建てられ、定番が詰めていた。本丸北側の虎口は、建物で隠された埋門になっていた。東二ノ丸には3層の天守が建てられていたが、元々天守台はなく、現在はただの空き地になってしまっている。西二ノ丸周辺の虎口は最も厳重に作られており、屈曲した虎口を防衛する櫓台(帳櫓)も残っている。水道配水池が作られた為に破壊を受けた西三ノ丸の周辺にも、よく見て周ると石垣が残っている。

 徳島城の石垣を構成する石は緑色片岩と言うらしいが、一宮城の本丸石垣のものと全く同じである。割れやすい脆い石材なので、こうした大規模な石垣で使われる例は稀なようだ。関東では中世の山城である武蔵小倉城に同じ石材を使った石垣が残るが、小倉城では一つ一つの石材が小さく、平らに積み重ねられており崩落箇所も多いが、徳島城のものは石材も大きく見事である。

 麓の平地に築かれた表御殿は既にないが、庭園や周囲の石垣・虎口・水堀が東側半分だけ残っている。ここの石垣も、要害部と同じ緑色片岩で構成されている。

 徳島城を構成する、飾り気のない荒々しい石垣は、戦国時代の弱肉強食の激しさをそのまま伝えているようで、美観を優先する傾向の強い近世城郭としては極めて異質なものである。川並衆と言う一介の職能集団の頭目から、秀吉と共に大名にまで実力でのし上がった蜂須賀氏の、尚武の気風によるものであろうか。また山上の要害部の縄張も、中世山城の雰囲気が濃厚に漂っていて見応えがある。戦国の山城好きには外せない城である。
帳櫓の櫓台石垣→DSC00751.JPG
DSC00739.JPG←西三ノ丸周辺に残る石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.075306/134.554678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ノリパ

雰囲気があっていいですね。行ってみたいです。意外と近くに
なったので、そのうち行ってみます。
by ノリパ (2010-07-11 14:36) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
忙しいと思いますが、単身赴任を逆手にとって、あちこちの名城に行けるといいですね。
by アテンザ23Z (2010-07-11 21:40) 

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