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北の庄城(福井県福井市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4569.JPG←発掘された堀と石垣跡
(2004年4月訪城)
 北の庄城は、織田信長の重臣で北陸方面軍総司令官であった柴田勝家が築いた城である。元々この地には、黒丸城主朝倉貞景の次男頼景が北庄遠江守と称して居館を築き、一乗谷に拠る越前朝倉氏の庶流北庄朝倉氏の居館として、重要な拠点であったようである。1573年、織田信長は敵対する宿敵朝倉氏を滅ぼし、その後蜂起した越前一向一揆を弾圧平定し、1575年に柴田勝家に越前を与えて北陸経略を統括させた。勝家は朝倉氏の一乗谷城を捨て、新たに平城の北の庄城を築いた。北の庄城は9層の壮大な天守を持った立派な城郭であったと小早川隆景などの書簡に記録されている。しかし、1582年に信長が本能寺の変で横死し、後継の座を巡って羽柴秀吉と対立すると、翌年の賤ヶ岳の戦いで敗れた。そして越前に侵攻した秀吉に居城の北の庄城を攻められて、夫人となって幾ばくもないお市の方(信長の妹)と共に自刃し、北の庄城は落城した。その後、丹羽氏などが短期間在城したが、1600年に徳川家康の次男結城秀康が越前に入部し福井城を新たに築城すると、北の庄城は消滅した。

 北の庄城は、前述の通り福井城築城によって姿を消し、その遺構はほとんど見ることが出来ない。またその縄張りもほとんど不明である。しかし近年地下からその遺構が発見された。私が訪城した時は、ちょうど城址公園がオープンしたてで、本丸付近に当たる柴田神社境内に地下の石垣が発掘展示されている。また現在では資料館も整備されている様である。わずか8年で姿を消した、幻の名城である。
城址公園→IMG_4557.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.060245/136.219536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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