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両新田神社(愛媛県松山市) [その他の史跡巡り]

DSC00964.JPG←境内に残る多数の五輪塔
 両新田神社は、新田義貞の三男義宗と脇屋義助の嫡男義治を祀った神社である。

 新田義宗は、義貞の嫡男義顕が越前金ヶ崎城の戦いで戦死して以降、妾腹の兄義興を措いて実質的に新田氏の嫡男の立場にあった。室町幕府の内部分裂である観応の擾乱が発生すると、その虚を突いて南朝方は各地で蜂起したが、義宗も従兄弟の脇屋義治と共に上野の新田党を指揮して信濃の宗良親王を奉じて挙兵した(1352年の武蔵野合戦)。一旦は鎌倉を占領したものの、体勢を立て直した足利尊氏に打ち破られて、再び逼塞を余儀なくされた。その後、2代将軍義詮、鎌倉公方基氏が相次いで病死すると、1368年新田党の拠る越後より再び挙兵した。しかし、上野沼田の合戦で北朝方に敗れ、義宗は奮闘虚しく戦死したと伝えられている。(沼田には義宗の墓が残っている。)義宗の最後については異説もあり、所沢に逃れて後に出家したとも、また義治と共に出羽に逃れ、その後伊予に落ち延びたとの説もある。

 脇屋義治は、父義助と行動を共にしていたが、伊予で義助が病没すると、新田党のいる越後に移った。その後、義宗と共に武蔵野合戦、上野沼田と戦ったが、敗れて出羽に逃れたと言う。その後の消息は定かではないが、一説には義宗と共に伊予に落ち延びたとも言われる。

 両新田神社の社伝に拠ると、出羽羽黒山に隠れ住んでいた義宗・義治の元に四国の南朝方であった伊予得能家から迎えが来て、妻子・一族郎党と共に伊予に落ち延びて、湯山の日浦で得能家に匿われて居住した。その後、1403年8月に義治が83歳で没し、その後を追う様に義宗も同年11月に74才で没した。この二人の家来たちも多く、この地で一生を終えた。二人の死後、得能通義は両将の墓辺に小宮を営み、1548年に河野通直は二廟を建立し義宗を上新田神社、義治を下新田神社として祀った。その後明治時代に合祀されて、両新田神社と改められたと言う。

 両新田神社は小さな神社であるが、新田氏の家紋大中黒を掲げている。境内には一族・家臣の墓と伝えられる多くの五輪塔の他、「義宗腰掛けの石」や義宗にまつわる「お杖椿」などが残る。義宗・義治が出羽に逃れたと言うのは、おそらく伝承に過ぎないと思われるが、こうして二人の遺蹟と伝わるものが大切に保存されているのを見ると、歴史の表には決して出てこない、地下に隠れた南朝勢力の根強さを思い知らされるようである。二人にまつわる伝承も、そうした根強い支持が生んだ幻想であったのかもしれない。
義宗腰掛けの石→DSC00963.JPG

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.901357/132.869586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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