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湯築城(愛媛県松山市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC00992.JPG←搦め手虎口の土塁
 湯築城は、伊予守護の河野氏の歴代の居城である。河野氏は源平合戦で源氏に味方して以来、伊予に勢力を張った豪族で、承久の乱で一旦没落した。南北朝期に入ると、河野通盛は足利尊氏に従って戦功を挙げ、南朝方に付いた同族土居氏・得能氏らと干戈を交えた。その状況の中、1336年に通盛は本拠を河野郷の高縄山城から道後の湯築城に移した。その後、湯築城は、九州に向かう途中の懐良親王を戴いた土居・忽那氏ら伊予の南朝勢力に攻められて落城したり、東予に攻め入った讃岐の細川氏に敗れて一時城を占拠されるなど、激しい攻防の場となった。応仁の乱以降は、伊予国内は河野・宇都宮・西園寺氏によって三分され、戦国時代に入ると、河野氏は一族内部の抗争で勢力を弱めた。

 1574年に土佐を統一した長曽我部元親は、四国平定を目指して伊予へ進攻し、1584年、河野通直は長曽我部氏の軍門に降った。翌85年、豊臣秀吉の四国征伐が始まると、秀吉の命により小早川隆景が伊予に進攻し、湯築城を包囲した。隆景の降伏勧告に、河野通直は湯築城を開城して降った。その後湯築城は、四国平定の功により伊予を得た小早川隆景に与えられ、通直は妻が毛利氏の出であったため、城中に留め置かれた。隆景が筑前名島城に移封となり、福島正則が湯築城に入ると、伊予国内に身の置き所のなくなった通直は、毛利氏の好意で安芸竹原に移り、そこで病没し、河野氏は断絶した。福島正則は、居城を府中城(国分山城)へ移し、湯築城は廃城となった。

 湯築城は、現在は道後公園となって整備されている。比高30m程の小丘陵に主郭・二ノ郭を置き、周囲の平地に内堀や土塁を築き、更にその外周を外堀で囲んでいる。外堀内部の平地部分には家臣団の居館や排水溝が発掘復元されている。大手は東側にあるが、既に破壊を受けているようである。一方、搦め手虎口は西にあり、ここには虎口の土塁が屈曲して見事に残っている。外堀の北東側は内側に屈曲しているが、方向から考えて鬼門除けであろう。山上には小さな主郭とやや広い二ノ郭があるが、二ノ郭から主郭に登る道には2段の馬蹄段があり、おそらく馬出し機能を兼ねた段曲輪だったと思われる。

 守護の城としては小さい城であるが、河野氏の勢力がその程度のものだったからであろう。それでもかつては守護の城として伊予の中心であった。ちなみに街中なのに、外堀にカワセミがいたのでびっくりした。
屈曲する外堀→DSC01037.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.848107/132.786652/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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