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大洲城(愛媛県大洲市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC01434.JPG←本丸の重厚な石垣
 大洲城は、かつては地蔵嶽城と呼ばれ、元々は伊予の豪族伊予宇都宮氏の居城であった。伊予宇都宮氏は、下野宇都宮氏の有力な分族で、鎌倉時代に承久の乱における戦功によって伊予守護職が宇都宮氏に与えられたことに由来する。1330年に豊前宇都宮氏の出である宇都宮豊房が伊予守護職となって伊予に入部し、翌31年に地蔵嶽に新城を築いた。以後、伊予宇都宮氏歴代の居城となって、湯築城を本拠にする河野氏や黒瀬城に拠る西園寺氏と、室町・戦国期を通して抗争を繰り広げた。戦国末期になると土佐の長曽我部元親は、その強勢を以って四国平定を目指して伊予へ進攻し、1580年、宇都宮氏を降して宇都宮氏旧臣の大野直之を城主とした。1584年に豊臣秀吉の四国征伐が始まると、小早川隆景の軍勢3万に囲まれて開城した。その後、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石に封ぜられて大洲城に入り、戸田氏が朝鮮の役で病死すると、1595年に藤堂高虎が宇和郡板島7万石を与えられて、大洲城に入った。しかし1600年に関ヶ原合戦の戦功で、高虎は今治を追増されて今治城を築いて居城を移した。1609年には、淡路洲本城より脇坂安治が大洲城に入った。大洲城のシンボルである四重天守は、この脇坂時代に築かれたと思われる。脇坂氏の後は加藤貞泰が入り、以後幕末まで加藤氏の居城となった。

 城の天守は明治期まで存続していたが、1888年(明治21年)に老朽化を理由に解体されてしまった。しかし幸いなことに、天守の雛形が大洲藩作事方棟梁の家に伝わっており、それと明治時代の古写真を元にして、2004年に天守が往時そのままの姿で再建された。(再建の経緯については、三浦正幸著「城の作り方図典」(小学館)に詳しい。)

 大洲城は、再建された四重天守の他、天守と連結されている櫓二棟と、三ノ丸の櫓二棟が現存している。本丸と二ノ丸の一部以外は市街化で湮滅していて、堀も完全に湮滅しているが、本丸周囲には幾重にも石垣が残り、二ノ丸大手門の枡形の一部や二ノ丸御殿の石垣が民家の隣に何気なく残っていて、なかなか興味深い。また本丸から200m程南に離れた大洲小学校の敷地の片隅にも三ノ丸石垣と共に隅櫓が往時そのままの姿で残っており、なかなかに見応えがある。しかしやはり、水堀に映える天守や石垣の姿が見れないのは、近世城郭としてはちょっと寂しい。

 訪城当日は、松山市街で大渋滞にはまり、なおかつ高速が事故でド渋滞と言うことで、下道・裏道を使って大洲まで来るのに予定の数倍の時間が掛かり、次の宇和島城に行く為に、大洲城は駆け足で訪城せざるを得なくなった。外郭まで含めてわずか30分と、近世城郭としてはこれまでの最短訪城記録である。当然、天守にも登れなかったので、機会があればもう一度ゆっくり訪城したい。
三ノ丸石垣と現存隅櫓→DSC01488.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.509375/132.541519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
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