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三峯城(福井県鯖江市) [古城めぐり(福井)]

IMG_4611.JPG←堀切と主郭
(2004年4月訪城)
 三峯城は、南北朝期に築かれた山城である。南北朝動乱の初期の1337年、北朝方に付いていた平泉寺宗徒が、新田義貞の南朝方に加わった際に構えた城であった。叡山を落ちて北陸に逃れた義貞は、まず敦賀の金ヶ崎城に拠ったが、半年の苦しい籠城戦の末に城を落とされ、義貞は落城前に杣山城に逃れた。その後、義貞は、杣山城を拠点に体勢の立て直しを図り、越前守護斯波高経率いる北朝方との激しい攻防を開始した。平泉寺が南朝方に付いたのも、こうした状況の中で、退勢挽回を図る義貞の必死の工作があったものと考えられる。そして義貞は、弟の脇屋義助を三峯城に城将として派遣し、越前府中争奪戦や足羽七城の戦いにおいて、北朝方と激戦を展開する義貞を後方から支援したものと考えられる。1338年に義貞が灯明寺畷で戦死すると、脇屋義助は兄に代わって北陸南朝軍を率いて攻防を続けた。一旦は、斯波高経を加賀に追い落としたものの反撃にあい、結局北陸を捨てて美濃経由で吉野に戻った。この戦いの最中の1340年、三峯城は北朝方の三山重行によって攻め落とされた。その後の歴史は定かではないが、戦国大名朝倉氏の本拠一乗谷を俯瞰することの出来る絶好の陣場であるので、戦国期には一乗谷に急を知らせる物見兼出城として機能したと考えられる。

 三峯城は、標高404.5mの城山に築かれており、山頂に築かれた主郭を中心に、三方に分かれた峯に沿って堀切で仕切られた小曲輪が階段状に連続した縄張りとなっている。曲輪はいずれも規模が小さく、多人数を籠める事は出来ない。主郭が最も広く、「脇屋義助卿守戦之地」と記された大きな石碑が建っている。周囲の曲輪を仕切る堀切はしっかりしたものだが、いずれも規模は小さい。また主郭周辺には竪堀が数条見られる。また大手虎口の両側にはしっかりとした土塁が構えられ、傾斜のきつい坂虎口の防備を固めている。城へは廃村となった三峯集落跡から登って、尾根伝いに数百m歩いていくが、途中には細い尾根道をS字状に曲げた土橋とされる遺構が残る。

 城の規模は小さいが、縄張りは明確でなかなか面白い。また歴史的にも重要な城であるので、太平記ファンならば必須の城であろう。思えば三峯城は、私が城歩きを始めてから初めて訪れた本格的な山城で、土橋・虎口・竪堀などの城郭構造を初めて目の当たりにした城でもあった。
主郭から見た堀切・土橋と段曲輪→IMG_4617.JPG
IMG_4600.JPG←尾根道のS字状土橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.972085/136.274811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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