SSブログ

奥沢城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02359.JPG←山門脇に残る土塁
 奥沢城は、世田谷城を本拠としていた武蔵吉良氏の老臣大平左馬(出羽守)の居城である。低湿地帯に南から北へ突き出した比高5~6mの舌状台地の上に、世田谷城の出城として吉良頼康が築いたものと伝えられている。頼康の時代、関東には既に小田原北条氏の勢力が伸張しつつあり、頼康も北条氏2代氏綱の娘を室として迎えていた。そんな中で築かれた奥沢城は、おそらく北条氏の武蔵経営の一翼を担うために北条氏の後援によって築かれたか、若しくは北条氏と一定の緊張状態にあった吉良氏が北条氏への備えとして築いたものであったろう。1590年の小田原の役で北条氏が滅びると、奥沢城も廃城となったが、後、徳川4代将軍家綱の時、珂碩上人が奥沢城址の地を賜り九品山浄真寺を開創した。

 奥沢城は現在、九品仏の駅名で知られる浄真寺に変貌しているが、境内には方形の土塁が良好に残っている。土塁は一部、山門を建てる為に切り開かれたり、墓地造営の為改変を受けているものの、四隅の櫓跡の高まりなどが明瞭である。寺域には古木が多く、特に天然記念物になっているカヤの大木は推定樹齢700年以上ということなので、奥沢城の築城以前からの歴史を見守ってきたということになる。土塁の周囲は市街化によって全く旧態を失っているが、国土変遷アーカイブの昭和20年代の写真を見ると、低湿地帯に臨む方形土塁の周囲の台地も、曲輪となっていたことがわかる。当時はまだ、奥沢城外郭北側の低地に大沼という沼が広がり、それ以外の低地は水田が広がっていて、往時の要害地形の面影を残していたようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.608133/139.660832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント