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世田谷城(東京都世田谷区) [古城めぐり(東京)]

DSC02545.JPG←団地裏に残る空堀と土塁
 世田谷城は、足利氏に連なる名族、武蔵吉良氏の居城である。吉良氏は、斯波氏などと並び足利一門の中でも家格の高い一族であった。その為、足利尊氏が室町幕府を開くと、「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われるほどの家格を誇った。その吉良氏の庶流東条吉良氏は、奥州管領となって奥州に下り、足利家の内紛である観応の擾乱では岩切城の戦いで活躍した。後に奥州での勢力を弱めると鎌倉公方に仕えて武蔵に入部し、14世紀後半に吉良治家が世田谷に本拠を置いたと言う。世田谷城はこの頃から15世紀前半に懸けての時期に築かれたと思われる。吉良氏は足利一門の名家として、鎌倉府より格別の処遇を受けた。その後、関東に永享の乱に始まる動乱の時代が訪れると、吉良氏は扇谷上杉氏との結び付きを強め、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の有力な与党となった。

 戦国時代に入って、新興勢力の小田原北条氏が武蔵に勢力を伸ばし始めると、吉良頼康は北条氏綱の娘を娶り、北条氏の姻戚となった。勿論これは、関東に何らの地盤も持たない北条氏が、自らに箔を付ける為に名門吉良氏を懐柔したものであろう。そして、これを契機に吉良氏は北条氏に徐々に吸収され、頼康の晩年には江戸氏・大平氏以下の吉良氏の重臣層は皆、北条氏に直属し、吉良氏の存在は有名無実化した。また頼康は、戦国時代のある時期からもう一つの居城蒔田城に移り、そちらを本城とした様で、蒔田御所と尊称されている。最終的には1590年の北条氏滅亡と運命を共にし、武蔵吉良氏は没落し、世田谷城も廃城となった。しかしかろうじて命脈を保ち、蒔田氏と改称して高家として江戸時代にも存続した。

 世田谷城は、目黒川の支流烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ南に突き出した舌状台地上に築かれた城である。城域は現在の豪徳寺の地を中心としており、豪徳寺から南側にやや離れて世田谷城址公園が整備されている。このことから分かるように、かつては規模の大きな城だったようである。本郭は、前述の通り豪徳寺となって遺構は湮滅しているが、かつてここには吉良氏の館があったと言われている。豪徳寺南の団地・住宅地から城址公園に至る部分が外郭に当たり、居館に対する詰城に相当したようである。ほとんどの遺構は湮滅しているが、城址公園や団地の裏には土塁と空堀の一部が残っている。全体からすれば部分的な遺構に過ぎないが、それでも土塁は5m以上の高さがあり、堀幅も10m程もあって、規模が大きく見事である。また豪徳寺の参道に沿った土盛もかつての土塁であろう。遺構はかなり失われているのは残念だが、それでも名門の武家の城の規模を想像することのできる立派な遺構である。
住宅地の合間に見える土塁→DSC02536.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.648753/139.647464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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