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倉賀野城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02618.JPG←住宅地の中に残る堀跡
 倉賀野城は、武蔵七党児玉党に属する倉賀野氏の居城である。倉賀野氏は、治承年間に秩父三郎高俊がこの地に入部して倉賀野氏を称したのに始まり、南北朝時代に倉賀野頼行が倉賀野城を築いたと言う。倉賀野氏は結城合戦以降、関東管領山内上杉氏に従い、戦国関東の重要な画期となった河越夜戦の際にも山内上杉憲政に従ったが、倉賀野行政は乱戦の中で討ち死にした。行政の死後、倉賀野十六騎と呼ばれる重臣達が幼主を助けて倉賀野城を守った。しかし倉賀野衆内部には内紛分裂があったようで、1559年秋、倉賀野十六騎の内、金井秀景が武田信玄に従ったと言う。1560年、小田原北条氏に追われて越後に逃れた上杉憲政の請いを受け、長尾景虎(後の上杉謙信)が越後から関東に出馬すると、倉賀野左衛門五郎尚行はこれに従って小田原城まで遠征し、一方、その後巻き返しに出た北条・武田両軍は倉賀野城を攻撃した。尚行は橋爪若狭守に助けられて敵を撃退したが、1565年には武田信玄の西上州侵攻によって、箕輪城に先立って遂に落城した。以後、倉賀野城は甲斐武田氏の持ち城となり、1570年には金井秀景が倉賀野城主となって、倉賀野淡路守秀景と名乗った。1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされると、秀景は厩橋城に進出した織田信長の家臣、滝川一益に従った。本能寺の変で信長が横死すると、上野に侵攻した北条氏直は神流川合戦で一益を破り、一益は残兵を倉賀野城に収容した後、伊勢に逃げ帰った。その結果、倉賀野城は北条氏の手中に帰し、以後、秀景は北条氏直に従い、倉賀野城には垪和伯耆守が駐留して北武蔵と上野の国務に当たった。1590年の小田原の役では、秀景は小田原城に籠城し、倉賀野城は北国勢の大軍の前に降伏開城し、以後廃城となった。

 倉賀野城は烏川北岸に望む断崖上に築かれた城で、かつては幾重にも外堀を廻らした広い城であった。三ノ丸北側には丸馬出しもあったようで、おそらく武田氏によって改修されたものであろう。しかし現在では市街化によってほとんど湮滅し、往時の姿を想像することは難しい。しかしよく歩いてみると、住宅地の合間にかつての堀の名残が残っていて、ここが城であったことをわずかに伝えている。尚、現地に掲げられている縄張図に拠れば、西の林西寺周辺には西城と呼ばれる出城があったようである。しかし、ここも遺構はほとんど確認できなかった。かつては関東三国志の争奪の只中の城であったが、時の彼方に消えてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.294184/139.044578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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