岡本城第2次発掘説明会 [城郭よもやま話]
昨日(9/19)、宇都宮市北東の岡本城(市指定史跡)で発掘説明会があった。
今回は、新聞報道もされていたが、
「貼石」とされる石の遺構が主郭虎口内側に発見された。
2年前に来た岡本城であるが、
以前は冬でもがさ藪がひどくて遺構を見るのが大変だったが、
今回は見違えるように藪が取り払われていて、
遺構の状況が非常によくわかった。
まず最初に城の歴史と概要の説明があった。
もとは岡本氏の居城であったが、南北朝期までその事跡が見られるが、その後事跡は絶え、
いつの頃からか玉生氏が岡本郷を賜って入部した。
これが諸説あって確定できないが、1462年に玉生信濃守綱重が築いたとする説もある。
玉生氏は、元々玉生城が本拠であったが、
宇都野城など何度か本拠を移して岡本城に入ったらしい。
岡本城も、城のある台地下の低地(城の北側)の中に「元宿」という地域があり、
ここに岡本刑部館があったという伝承があるそうで、
初期には城がなく、平地に居館を築いていた可能性もあるらしい。
(なんとその地区には「お城稲荷」と言ういわくありげな社まであるとか)
したがって岡本城が築かれたのは、玉生氏入部後かもしれない。
岡本城入部後の玉生氏は、笠間城と岡本城の間を行ったり来たりしていたらしい。
ちなみに、合併前の旧河内町の2~3代前の町長の玉生さんは、御子孫であるそうだ。
肝心の城であるが、まず集合場所の公民館横の畑が、周囲より一段窪んでいる。
聞いたところドンピシャで、三ノ堀の跡だそうである。
←三ノ堀跡
その後、二ノ堀の発掘現場を回ってから、主郭へ。
今回2班に別れて回ったが、城歩きの上級者向けグループはこちら、
と言う声に迷わずそっちのグループに付いたので、
「蛇が出るかもしれません」と言う主郭堀底などにも案内してもらえた。
藪や倒木が取り払われて、深さ5m程の薬研掘と横矢掛りが見事な姿を現していた。
次に虎口から主郭へ。
この虎口には土橋が架かっているが、これは後世のもので、
往時は木橋が架けられていたそうである。
虎口西側の土塁は、内側も傾斜がきつく切り立っているが、
これは土橋を作るときなどに後世切り崩されたものとのこと。
虎口東側に今回新たに発見された貼石遺構がある。
石垣・石積みの類ではなく、装飾目的と見られるというが、
ほかに類例がなく、はっきりした目的は分からないらしい。
こうした貼石遺構は、どうも全国で唯一この城だけで発見されているものらしい。
虎口周辺には小石が多数あり、
おそらく通路を石で敷き詰めていたと思われるとのこと。
この後、主郭内を巡ったが、主郭内にはわずかに溝状に窪んだ地形が巡っており、
発掘調査の結果、往時の溝であることが確認された。
溝は2本あり、内側の溝は城の改修の際に埋め戻されているようだ。
今回、主郭内も藪が整備されたおかげで、
主郭外縁部近くを曲輪を仕切るように溝が走っているのがわかり、
何の為のものか興味を引く。
同様な溝は、下野市の箕輪城にもあった。
建物の排水側溝だったのかもしれない。
また虎口東側の土塁のすぐ内側に柱穴が発見され、
ここに建物があったそうである。
土塁のすぐ際で場所が不自然であることから、
最初は土塁がもっと小さく、建物が建てられていたものを、
土塁を大型化したときに建物を取り払ったと見られるという。
主殿とされる建物跡はまだ発掘されていないそうなので、
これからの発掘調査が待たれるところである。
この後、帰り際に民家脇に四ノ堀跡も見つけることができた。
ちょうどこの位置で道が屈曲しており、
食違い虎口でもあったのだろう。
畑だったり家屋が建ったりしていて、
前回訪城した時は歩き回るのがはばかられた為にあまり確認することができなかった部分も、
今回は大手を振って歩くことができたので、
個人的に再発見した遺構もあり、なかなか興味深い説明会だった。
このように中世城郭跡を整備してくれるのは非常にうれしいことである。
宇都宮市、がんばれ!
今回は、新聞報道もされていたが、
「貼石」とされる石の遺構が主郭虎口内側に発見された。
2年前に来た岡本城であるが、
以前は冬でもがさ藪がひどくて遺構を見るのが大変だったが、
今回は見違えるように藪が取り払われていて、
遺構の状況が非常によくわかった。
まず最初に城の歴史と概要の説明があった。
もとは岡本氏の居城であったが、南北朝期までその事跡が見られるが、その後事跡は絶え、
いつの頃からか玉生氏が岡本郷を賜って入部した。
これが諸説あって確定できないが、1462年に玉生信濃守綱重が築いたとする説もある。
玉生氏は、元々玉生城が本拠であったが、
宇都野城など何度か本拠を移して岡本城に入ったらしい。
岡本城も、城のある台地下の低地(城の北側)の中に「元宿」という地域があり、
ここに岡本刑部館があったという伝承があるそうで、
初期には城がなく、平地に居館を築いていた可能性もあるらしい。
(なんとその地区には「お城稲荷」と言ういわくありげな社まであるとか)
したがって岡本城が築かれたのは、玉生氏入部後かもしれない。
岡本城入部後の玉生氏は、笠間城と岡本城の間を行ったり来たりしていたらしい。
ちなみに、合併前の旧河内町の2~3代前の町長の玉生さんは、御子孫であるそうだ。
肝心の城であるが、まず集合場所の公民館横の畑が、周囲より一段窪んでいる。
聞いたところドンピシャで、三ノ堀の跡だそうである。
←三ノ堀跡
その後、二ノ堀の発掘現場を回ってから、主郭へ。
今回2班に別れて回ったが、城歩きの上級者向けグループはこちら、
と言う声に迷わずそっちのグループに付いたので、
「蛇が出るかもしれません」と言う主郭堀底などにも案内してもらえた。
藪や倒木が取り払われて、深さ5m程の薬研掘と横矢掛りが見事な姿を現していた。
次に虎口から主郭へ。
この虎口には土橋が架かっているが、これは後世のもので、
往時は木橋が架けられていたそうである。
虎口西側の土塁は、内側も傾斜がきつく切り立っているが、
これは土橋を作るときなどに後世切り崩されたものとのこと。
虎口東側に今回新たに発見された貼石遺構がある。
石垣・石積みの類ではなく、装飾目的と見られるというが、
ほかに類例がなく、はっきりした目的は分からないらしい。
こうした貼石遺構は、どうも全国で唯一この城だけで発見されているものらしい。
新発見の貼石遺構→
虎口周辺には小石が多数あり、
おそらく通路を石で敷き詰めていたと思われるとのこと。
この後、主郭内を巡ったが、主郭内にはわずかに溝状に窪んだ地形が巡っており、
発掘調査の結果、往時の溝であることが確認された。
溝は2本あり、内側の溝は城の改修の際に埋め戻されているようだ。
今回、主郭内も藪が整備されたおかげで、
主郭外縁部近くを曲輪を仕切るように溝が走っているのがわかり、
何の為のものか興味を引く。
同様な溝は、下野市の箕輪城にもあった。
建物の排水側溝だったのかもしれない。
また虎口東側の土塁のすぐ内側に柱穴が発見され、
ここに建物があったそうである。
土塁のすぐ際で場所が不自然であることから、
最初は土塁がもっと小さく、建物が建てられていたものを、
土塁を大型化したときに建物を取り払ったと見られるという。
主殿とされる建物跡はまだ発掘されていないそうなので、
これからの発掘調査が待たれるところである。
この後、帰り際に民家脇に四ノ堀跡も見つけることができた。
ちょうどこの位置で道が屈曲しており、
食違い虎口でもあったのだろう。
四ノ堀跡と道の屈曲→
畑だったり家屋が建ったりしていて、
前回訪城した時は歩き回るのがはばかられた為にあまり確認することができなかった部分も、
今回は大手を振って歩くことができたので、
個人的に再発見した遺構もあり、なかなか興味深い説明会だった。
このように中世城郭跡を整備してくれるのは非常にうれしいことである。
宇都宮市、がんばれ!
行政の支援もあると、遺構が失われずに地域の方の誇りにもなり、
いいことありますよね。がんばって、宇都宮市。ですね。
by ノリパ (2010-09-23 18:26)
>ノリパさん
予算が少なくて大変なんでしょうけど、もっともっとがんばって欲しいところです。そういえば西日本の方が、史跡保護には熱心かもしれません。
by アテンザ23Z (2010-09-23 20:49)