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内藤塚(群馬県箕郷町) [その他の史跡巡り]

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 保渡田城の北西に800m、善龍寺の南200m程の車道沿いに2基の墓がたたずんでいる。武田信玄の重臣内藤昌豊とその子昌月の墓である。保渡田城の項に記載した通り、1566年の武田信玄による箕輪城攻略の後、内藤修理之亮昌豊は箕輪城の城代に任じられて西上野の経営を任せられた。そして信玄は、昌豊に命じて戦災で消失した善龍寺を満行山と改号させて、再建に当たらせたと言う。その後の1575年、昌豊は武田勝頼に従って長篠の合戦で討死し、昌月は父の遺骸を奉じてこの地に葬った。昌月は武田氏滅亡後、この地を領有した小田原北条氏に仕え、1588年正月に没し、昌豊の傍らに葬られたと言う。

 現在は2基の五輪塔が、近年改装された真新しい台座の上に、静かに安置されている。信玄配下の名将として知られる内藤昌豊の墓が、甲斐から遠く離れた上野の地にあることは、当時いかに甲斐武田氏が強勢を誇って他国に進出していたか思い知らされる。

 尚、昌豊の墓が残っていることが象徴的に示す通り、この西上野という地域は非常に特異である。上杉・北条・武田という三大強国の係争地帯であり、特に戦国後期には武田氏が西上野を攻略して武田領となったものの、武田氏滅亡・織田信長の横死によって、最期は北条領に変わるという歴史の変遷によって、武田氏の築城技術による城(例えば根小屋城)や北条氏の築城技術による城(例えば松井田城)が同じ地域に混在しているのである。このような地域は稀であり、それぞれの築城法の違いを見比べながら城めぐりをすると非常に面白いだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.389419/138.974036/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:墓所
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