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蒼海城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02811.JPG←本丸跡の土塁
 蒼海城は、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の本拠である。長尾氏と言えば、上杉謙信(長尾景虎)を輩出した越後長尾氏が有名であるが、これと同族である。長尾氏は足利氏の有力な姻族である上杉氏(足利尊氏の母清子の実家)の家臣として南北朝期より台頭した。足利直義の股肱の臣、上杉重能の家臣長尾景忠は、1337年に上野守護代となり、その4男忠房は総社を与えられて総社長尾氏の祖となった。忠房は、元々国府があったと思われる地を城塞化して、蒼海城とした。
 関東管領を世襲するようになった山内上杉氏の家宰には同族の白井長尾氏が就いていたが、1473年に長尾景信が亡くなると、山内上杉顕定は家宰に景信の嫡子景春ではなく、景信の弟で惣社長尾氏を継いだ忠景を任じた。これは顕定が白井長尾氏の勢力伸張を警戒したためとされる。これを不満とした景春によって、長尾景春の乱と呼ばれる大乱を招くことになった。
 戦国時代に入り、駿河から伊豆に入った伊勢宗瑞(北条早雲)が勃興して小田原北条氏を興し、2代氏綱が勢力を伸張させると、1524年ごろ総社長尾顕方は北条氏に通じた。しかし箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業に挟撃されて苦しみ、ついに長野氏に降って上杉方に復帰した。後に長野業政の計らいで総社長尾景房が白井長尾氏を継いだが、以後、総社長尾氏は全く衰え、1566年に蒼海城は武田信玄に攻略され、総社長尾氏は上杉謙信を頼って越後へと退去した。その後、蒼海城は荒廃した。
 1590年に北条氏が滅んで徳川家康が関東に入部すると、諏訪頼水が総社に入部した。しかし蒼海城は、国府跡に築かれた為か、地形に拘束された縦横列郭構造の不合理な城であったらしく、長尾景行の子忠房さえ放棄して石倉城を築城したほどで、諏訪氏も入城せず、諏訪氏が諏訪高島へ移ると、秋元長朝が入部したが、新たに総社城を築城して移り、蒼海城は廃城となった。

 蒼海城は現在はほとんど宅地化され、往時の地形を知ることはほとんど不可能である。しかし御霊神社が置かれた地はかつての土塁上と考えられ、その南東には本丸跡の土塁が残っている。中は畑になっているようだが周囲を民家で囲まれており、中を見ることはできないようだ。早くに失われた城の為、遺構がほとんど残っていないのも致し方ないところなのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.389748/139.033903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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☆はな

群馬県って 真田氏系のお城(砦)が多いなあと
思っていたのですが 本当は上杉氏系の方が
群をぬいて 多いのでしょうね^^??。
by ☆はな (2010-09-30 09:33) 

アテンザ23Z

>☆はなさん
コメントありがとうございます。
群馬は元は、山内上杉氏の領国でしたから、
上杉氏の家臣の系統の城が多くなると思います。

真田氏は、主家の武田氏が滅んだ後も生き残って、
独立領主のようになりましたが、
歴史的事実に即して言えば、
真田氏と言うよりは武田氏の城と言う方が正しいのでしょう。
by アテンザ23Z (2010-10-02 03:13) 

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