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逆井城(茨城県坂東市) [古城めぐり(茨城)]

DSC03196.JPG←復元された櫓
 逆井城は飯沼城とも呼ばれ、小田原北条氏の築いた平城である。元々この地には下野の豪族小山氏の庶流逆井氏の築いた逆井古城があった。逆井城は、常陸の佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国と、古河公方を支配下に置いて北関東進出を目論む北条氏との接壌地帯に当たり、北条氏康の命を受けた大道寺駿河守が攻め落とした様である。1577年、玉縄城主北条氏繁は、藤沢より職人を呼び寄せて城の改修を行った。一門衆が城主となり、また逆井城主となった氏繁が盛んに佐竹・下妻方面の動静を小田原に報告していたことから、北条氏にとって常陸侵攻の重要な戦略拠点であったことが伺える。翌78年に氏繁が亡くなると、北条氏舜が城代となった。1580年には、北条氏勝が城主となったが、豊臣秀吉との関係が緊迫してくると、北条氏直は氏勝に山中城の修築を命じ、1590年の小田原の役の際には、氏勝は山中城で抗戦し、山中城が落城すると玉縄城に逃れて、そこで開城降伏した。城主不在の逆井城もこの前後に開城したと見られ、北条氏滅亡と共に廃城となった。

 逆井城は、飯沼南岸の台地上に築かれた城で、飯沼は徳川吉宗の時代に新田開発によって姿を消したが、その地勢は健在である。本丸・二ノ丸を囲む土塁・空堀がよく残っており、横矢を掛けて巧みに屈曲させ、要所に櫓台を築いた縄張は滝の城等と共通するものである。しかし二ノ丸の空堀などは、大分埋もれているのか堀は浅く、深さ2m程しかない。土塁も北条氏の城として考えると規模が小さく、一門衆まで配置した重要拠点としては随分小規模な城に感じられる。これは、おそらく近世以降に遺構が改変を受けた為であろう。実際、国土変遷アーカイブの昭和20年代前半の航空写真を見ると、二ノ丸は耕地化されており、遺構が改変されている可能性が高いと思われる。ただ堀幅が5m程しかないので、往時でも4~5m程度の深さしかない堀だったのだろう。

 現在の逆井城は城址公園として整備され、特に史実に基づいて復元された櫓や井楼は資料的価値が高く、中世城郭愛好家からも極めて評価が高い。小なりとはいえ、小田原北条氏の縄張の特徴をよく持った城で、復元された中世城郭建築の姿も合わせて、必見の城である。逆井城に来るのは2度目であるが、以前来た時にはまだ北条氏の城郭を知らない頃であったので、今回改めてその特徴が再認識できた。
本丸周囲の空堀と復元木橋→DSC00292.JPG
DSC00300.JPG←横矢の掛かる二ノ丸空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.142883/139.853661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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ねじまき鳥

中世の復元ですね。
by ねじまき鳥 (2010-10-14 23:19) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
近年、中世城郭が見直されて、中世そのままの城の姿を復元する例が増えてきました。
嬉しいことですね。
by アテンザ23Z (2010-10-15 02:42) 

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