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末森城(石川県宝達志水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_4705.JPG←若宮丸から見た堀底道
(2004年4月訪城)
 末森城は、かつて織田信長の下で同僚であった加賀の前田利家と越中の佐々成政との戦い、いわゆる末森合戦が繰り広げられた山城である。築城年代は定かではないが、1550年には能登守護畠山氏の家臣土肥但馬が城主であった。上杉謙信が1577年に七尾城を攻撃した際には、末森に在陣し、七尾城を落城させた2日後に末森城を攻略したと言う。その後、謙信死後の家中の混乱で越後上杉氏の勢力が減退すると、加賀・能登は織田信長の支配するところとなり、能登4郡を与えられた前田利家が、小丸山城に拠って統治した。信長死後、豊臣秀吉に付いた利家は、加賀も与えられて金沢城を築いて加賀・能登を統治した。一方、越中富山城に拠る佐々成政は、織田信雄を擁する徳川方に付いた。この強い緊張状態の中で、加賀越中国境には、両者によって多くの山城が構築され、利家は加賀・能登を繋ぐ要衝である末森城に重臣の奥村永福を配し、城の増修築を施した。1584年に徳川家康が小牧・長久手の戦いで秀吉と交戦した後、成政は前田領へ1万5千の大軍で大挙侵攻し、末森城を奪取して加賀・能登を分断せんと企図した。ここに史上名高い、末森合戦が生起することとなった。

 佐々成政は9月8日夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城を出発し、倶利伽羅へ押し寄せると見せかけて、間道を通り、砺波の宮島から沢川へ迂回し、津幡の牛首に出た。9日、先陣は一足早く吾妻野の天神山に達し、午後2時に本隊は末森城から4.5kmの坪井山に本陣を構えた。翌10日朝、佐々勢は末森城への攻撃を開始した。この知らせが金沢城に到達したのが、午後2時頃。知らせを受けた利家が、金沢城を出発したのが午後4時と言う。この間わずか2時間。既にこのことあるを予想して、前田方が臨戦態勢にあったことがこのことから分かる。利家は午後9時に津幡城に入り、後に続く利長を待ちつつ軍議を開いた。午後11時に津幡城を出発し、11日午前4時に末森城から1.5km西方の鯨骨山に布陣した。末森城では既に激戦が展開され、かつての城将で前田方の与力となっていた土肥但馬の甥土肥伊予は討死し、二ノ丸まで攻め込まれたが、奥村永福は寡兵500で以って果敢に抗戦して時間を稼ぎ、利家の救援を待った。利家の軍勢はわずか数千であったと言われるが、果敢に佐々勢を攻撃・攪乱し、数時間にわたる戦いの末、利家は搦め手を突破して城兵と合流することに成功した。勝機を失った成政は、敵地での長い補給線と退路の確保を考慮して、越中に撤退した。この末森城の戦いの結果、成政は完全に孤立し、翌年秀吉の佐々征伐によってついに膝を屈することになった。一方、利家はこの勝利によって秀吉を極めて有利な立場にし、この功績によって越中まで領有して、加賀能登越中の三国を支配する大大名となった。その後、末森城は1586年に廃城になったようである。

 末森城は、比高100m程の低い末森山に築かれた山城で、現在史跡として整備されている。入口に大きな石碑が建ち、そこから本丸に向けて山道が延びているが、整備の為の軽トラックが入れるように道がやや拡幅されているので、遺構は若干の破壊を受けている。かなり広い山城で、山頂の本丸をはじめ、二ノ丸、若宮丸、馬掛場など、かなり広範囲に曲輪が展開している。本丸への道は、かつての堀底道であったようで、ところどころに虎口らしい遺構が見られる。登城道を堀底に配置し、S字状に屈曲させて左右の曲輪から挟撃できるようになっていて、敵兵の侵入を阻止する巧妙な構造となっている。しかし馬出しはなく、多数の曲輪を連ねたりしているものの、巨大な堀切や畝状竪堀なども見られず、全体的な縄張は割りと平易で、戦国末期の山城として期待して行くとやや拍子抜けの感を持つかも知れない。訪れた時はまだ山城初心者の頃だったのと雨が降り始めたのとで、遺構の探索が十分でなく、搦手側の曲輪群の堀切や、若宮丸先に連なる曲輪群など、だいぶ見逃している。ここもいずれ再訪したい山城の一つである。
本丸大手虎口→IMG_4709.JPG
IMG_4722.JPG←広大な馬掛場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.833762/136.778401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

【2019年4月再訪】
 石川の山城巡りの中で末森城に再訪して、前回2004年訪城時に見逃していた遺構もあらためて確認した。屈曲した竪堀が2ヵ所あり、大手の西尾根の屋敷地と三ノ郭群東側の腰曲輪に穿たれている。また二ノ郭前面には横堀が穿たれ、その手前に円弧状に土塁が築かれて防壁となっている。若宮丸の南斜面に何段かの腰曲輪群が築かれ、最下方に広大な若宮という曲輪がある。若宮の両端角には堀切が穿たれている。主郭の北には土橋を介して南北に細長い北郭があり、その外周に腰曲輪が築かれている。この腰曲輪から派生する東西の尾根にも堀切が穿たれている。搦手には竪堀が穿たれている。末森城は、遺構はよく残っているが、城域が広大なため整備の手が行き届かず、主要部以外は薮に埋もれてしまっているのが残念。尚、大手道の途中にイノシシ捕獲用の箱罠があったが、なんとイノシシが実際に引っかかっていた!こんなに間近で野生のイノシシを見るのは初めてだった。
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