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石神井城(東京都練馬区) [古城めぐり(東京)]

DSC03285.JPG←主郭周囲の空堀
 石神井城は、武蔵東部の豪族豊島氏の築いた城である。豊島氏は、葛西・江戸両氏と共に秩父流平氏の一流で、平安末期から室町中期まで武蔵東部に蟠踞した豪族であった。豊島氏は平塚城を本拠とし、更に石神井城・練馬城を築いて一帯に勢力を築いていた。1476年に生起した長尾景春の乱では豊島泰経とその弟泰明は景春方に付いた為、山内上杉顕定方の扇谷上杉定正の家宰太田道灌に攻められることとなった。1477年4月13日、道灌は泰明の拠る平塚城を攻め、翌14日泰経はその救援の為、石神井・練馬両城から出兵し、江古田原・沼袋ヶ原で道灌方と闘ったが大敗し、泰明以下一族150余名が戦死した。泰経は石神井城に敗走し立て籠もったが、道灌はこれを追って城の南方愛宕山に陣を敷き、石神井城を攻撃した。4月18日には一旦、城を破却することで和平交渉が始められたが、泰経がそれを実行しなかった為、4月28日、遂に道灌は外郭を攻め取り、泰経以下城兵は夜陰にまぎれて敗走し、石神井城は落城した。敗走した泰経は平塚城に拠ったが、これも道灌に陥とされ、更に小机城に逃げ延びたが、これも陥とされて豊島宗家は没落した。石神井城は落城後、廃城となった。

 石神井城は、都内有数の公園である石神井公園の一角にある。北の三宝寺池に面した台地上に築かれた城で、南を流れる石神井川を天然の外堀としていたようである。主郭は台地北端に築かれ、北は三宝寺池の湧水に浸食された急崖をなし天然の要害となっているものの、南は石神井川の小流で隔てられる以外は地続きの地形で、道灌が南に陣を構えて南側から攻撃を仕掛けたのは当然であろう。現在山林となった主郭周囲には土塁と空堀が残り、周囲の住宅地の中にも土塁の遺構が散見される。主郭周囲の空堀は横矢が掛かり、現在はかなり埋もれてしまっているものの堀幅は10m程もあって、往時は6mの深さの箱掘であったことが発掘調査で分かっている。主郭は周囲をフェンスで囲まれて侵入禁止になっており、普段は中を見ることはできないが、年に一度、11月に東京文化財ウィークが開催され、その期間だけは特別公開されるそうである。そのほか、城の周囲の道場寺や氷川神社には豊島氏の足跡が残るほか、石神井公園内には落城悲話にまつわる殿塚・姫塚がある。

 主郭は侵入禁止でも周囲の遺構だけでもなかなか見応えがあり、都区部では有数の中世城郭遺構であろう。来月には2010年の東京文化財ウィークが開催されるので、その時には主郭に入ってみたいと思っている。
住宅地に残る土塁跡→DSC03306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.736951/139.597017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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江州石亭

この豊島氏攻めには千葉自胤(これたね)も道灌のもとで活躍していましたね。有能な武将でしたが、南総里見八犬伝では名前も「よりたね」とされて暗愚な武将と描かれています。江州のご先祖さまの実胤の後を継いだ弟の自胤が下総への復帰を狙ったのですが、道灌の支援にも係らず果たせませんでした。
by 江州石亭 (2010-10-16 07:23) 

アテンザ23Z

>江州石亭さん
自胤は「これたね」と読むのですか。てっきり「よりたね」だと思っていました。やはり御一族だと違いますね。
千葉氏は享徳の大乱のあおりをもろに食らって、一族内紛が発生してしまったのは惜しいことですね。
by アテンザ23Z (2010-10-17 23:46) 

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